97日ぶりに工場前水曜文化祭が再開

チャホノ支会長から

『アサヒ水曜文化祭を再開した。 97日ぶりのことだ。 小さくて素朴な文化祭だが、嬉しい人々に会える。 季節の移り変わり 籠城の並木が黄色く紅葉した。 毎週水曜日には、いつでもお越しください。暇な時のおいしい料理とともに旭闘争に出会うことができる。旭の不法を証明して 私たちが正しかったことを証明して。 民主労組の力を証明するために。 僕たちはもっと粘り強く。 我我の意志を 私たちの声を。 揺らぐことなく、維持しながら走っていく。』

旭硝子で6年働き、解雇撤回で6年闘う

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旭で6年間働き、 (解雇撤回で)6年間闘っている。 解雇される前に下請け業者の班長だったのに。 旭現場はまったく労組がなければ、望みは1つもなかった。 労組のことばかり考えた。 正常に呼吸をしながら生きられる方法だった。 私は178人が解雇される前に,先に懲戒解雇された. 労組設立に気づいた会社側が旭ではなく別の会社に辞令を出した。 拒否した。すると旭工場の出入りが滞った。 そして解雇された。 それで夜、密かに車のトランクに乗って工場に入り、紆余曲折の末、労組を設立した。会社はあらゆる言葉を使用した。 チャ·ホンホは民主労総から給料をもらうことから、自分が出世しようとしているという話まで。 とんでもない話でもちきりだった。 胸が痛むのは、それを真実と考える一部の労働者が、酒の席で様々な話をした。 聞こえてくる話に腹が立ったが、気にならなかった。 時間が経てばすべて明らかになると信じていた。

多くの人がああやって闘争をあきらめて去った。 結局、22人が残った。5年が過ぎた。

残った同志たちには大変な時間だった。 みんなどんな気持ちで残っているのか、正確には分からない。 ある同志たちは冗談で、「6ヵ月か1年で争えば終わる」と思ったという。 初期に労務士が「この戦いは少なくとも数年は戦わなければならない」と教育したこともあった。 私は、そのまま話したらどうしよう、と怒ったこともある。 今思えば笑える話ですが。

その時はそれなりに毎日が緊張し、熾烈だった。 「私たち同志は悔しくて悔しくて残ったと思う。 賃金を少し上げて。 作業服を交換してほしいと労組を作ったら、かえって携帯メールで解雇されて…」 下請け業者を廃業に追い込んだので…」 悔しくて悔しくなるしかない。長い時間持ちこたえる力は「旭同志たちはよく戦っている」の一言だった。 「できることはなくても、多くの同志が暖かくやっている」という話は、疲れる度に力を与える精力剤だった。 闘争の初期の頃だけ考えると笑えるし…。 腹が立つこともあるが。 最後まで残って共に闘争する同志たちがいて、どれほど幸いか分からないと。 自ら慰める。 組合員たちは今、トールゲートの同志たちからもらった弁当を座り込み場で昼食として食べている。 私はソウル会議に行く途中、汽車の道を見ながら私たちが通り過ぎた道が目の前に見える。 今は笑って思い出せるから。 何と幸いだろう。