『キムヨンギュンという光—記録と記憶』 -キムミスクオモニのインタビュー

昨年8月に『キムヨンギュンという光-記録と記憶』という本が出版されました。2018年12月に泰安火力発電所で当時24歳の青年キムヨンギュン氏が亡くなって以降、遺族をはじめ、民主労総、市民団体などが闘いを継続しています。この本では、発刊に際してのキムミョンファン民主労総委員長はじめとする民主労総幹部の挨拶、これまでの経緯と闘いの意義など5部構成になっています。その中で、キムヨンギュン氏の母キムミスク氏のインタビューが第4部に掲載されていますので、 紹介させていただきます。

『キムヨンギュンという光—記録と記憶』2019年8月故キムヨンギュン市民対策委白書発刊チームより

“今私はヨンギュンの死一つだけを見ない”

(口述 キムミスク(故キムヨンギュンオモニ) 記録 パクヒジョン)

警察から明け方6時頃に最初に連絡がありました。お父さんの電話機に3回メールが来たが、寝ていたので(内容を)聞くことができませんでした。6時半頃だろうか、電話が来ました。「息子さんが泰安(テアン)にいるのはまちがいないでしょう?」と。お父さんがそうだと言うと、「今事故が起こったのですが、息子さんかどうか確認してもらいたい」と、早く来てくれと言ったんです。起きて顔を洗ったのかどうか覚えていません。そのまま来たと思います。そのまま…カードとカバンだけ持ってあわてて泰安に行ったんです。

この気持ちは何だろう?

 最初は警察署に来てくれとそう言ったんですよ。警察署近くまで行ったが、病院(泰安医療院)に来てくれとまた連絡が来たんです。‘大ごとだ’と思いました。大ごとになっているんだな。子供が気絶したり、話ができない程深刻なケガをしたみたいだ。だから子供が自分の子供なのかどうか確認してほしいと言っているのではないか。まさか死ぬということはないだろう。いや、やっぱりない、そんなことはないだろう。そう思いながら泰安に行きました。

 病院に到着して応急室にキムヨンギュンという人が来たかと尋ねたんです。そういう名前の人は入って来なかったと言うんです。人相、着衣などを話しながら、そういう人は入って来なかったかと尋ねても、入って来なかったと言うんです。最後に行くところは霊安室以外ないじゃないですか。間違いなくこの病院に来たという話を聞いたんだけど、霊安室に…20代中頃で、背が175ぐらいになる男の子がひょっとして入って来なかったかと聞くと、入って来たと言うんです。

 確認しなければならないじゃないですか。自分の子供なのかどうか。霊安室の中に引き出しのようなものがあって、そこから息子を取り出したんです。ビニールのようなものに包まれていました。全身じゃなく、頭だけ見せてくれたんです。顔が石炭の粉で黒くなっていました。口の中にも石炭の粉がいっぱい入っていて、私は最大限外側からよく見ようと思いました。自分の子供のようでした。信じたくなかったが…そのようでした。顔に触って見たら生きている時と同じだった。他のところは冷たくなっている皮膚…

 顔ではなく、他のところを見ようと思いました。ところが触らせないようにするんです。なぜそうするのかと尋ねると、ここに来る前に何も聞いてないのか、とそう言うんです。息子の損傷が激しいので見たらいけないというんです。じゃあ言葉で、言葉でも教えて下さいと言ったんです。そしたら、頭は体と分離していて、背中は裂けていて焼けた状態だと言うんです。私が息子の体を見ようとするので、私を外に追い出したんです。廊下で自分の息子をもっと見なければならないと、どれほど泣き叫んだかわかりません。時間がどれだけ経ったかわかりません。他の人は気絶でもするというんだけど、どんなに泣き叫んでも気絶しないんです。はぁ…

 泣きくたびれて上がって来たんだけど、1階に下請け会社の理事という人と、その横は誰かわかりません。二人が来て立っていたんです。申し訳ないと言いながら、言ったことは、「ヨンギュンは、行ってはいけないところに行き、やってはいけない仕事をした。保健に入って置いたのがあるから、それで解決する」と、そう言うんです。       

最初はそういうものかとも思いました。だけど1分、2分経って、少し疑問を感じたんです。遺族と初めて会ったのに、その横ですぐさまそういう話をできるのか?そうじゃないと思うが…何だろう? この気持ちは何だろう?思いが自然にそうなっていったんです。

信じられない言葉

 その場にヨンギュンの同僚たちがいたんです。同僚たちを別のところにこっそり連れて行って聞いたんです。異常の合図が来た時どうしなければならないのかと、ヨンギュンが仕事するところに待機室があるんです。そこで異常の合図を受けるらしいんです。会社ではそういう時、絶対にそのまま行ってはいけない、仕事も処理してはいけないと教育したとそう言ったんです。ヨンギュンの同僚たちの話は違うんです。無条件に行って処理することになっていると言うんです。原則そうだと。完全に正反対の話なんです。この人たちがわが子ヨンギュンに濡れ衣を着せているんだな、そこでわかったんです。真相を明らかにしなければならない、万が一会社で話を仕組んいるとしたら、この事故が完全に私の息子の過ちになってしまうと思ったんです。

 その場から少し離れたところに民主労総から来た人たちがいました。私の助けになればと来た人たちで、会社側とは違う人たちだということがわかりました。その人たちに会社側の人たちを私の目に見えないようにしてほしいと頼みました。どんな人たちだかわからないのは同じだが、元請けや下請けの人たちよりはまだいいのではないかという思いがありました。

 一旦会社を排除し、こっちを選択したんだけど…労組する人たち、活動する人たち、そういう人たちの話を聞くのは初めてなんです。この人たちが私にとって為になるのか、害になるのかわからないじゃないですか。テレビで毎日闘争する姿だけ映っている人たちで、だから私もただ騒々しい人たち、あまりよくない人たち、そう考えていた中で、私がこの人たちをどうやって信じることができますか。

 ところで、私の叔父が以前コーロンにいたんです。労働組合の副委員長をやったことがあって、私が電話して聞いて見たんです。なんか、公共運輸云々とかって名札にあるんだけど、この人たちは信じていい人たちなのかと、そしたら大丈夫だと、信じてまかせればいいと言うんです。だけど私は会ったこともないし、知り合いでもないから疑念を拭い去ることはできなかったんです。一日二日経ってからか、叔父が泰安に来たんです。するとその人たちは全部叔父が知っている人たちだったんです。だから少し安心しました。

 市民対策委副委員長が私にこう言ったんです。私たちは遺族を中心にし、遺族の話を最優先に考えると、その言葉が大きな力になりました。市民対策委の会議に遺族が参加してもいいと言い、朝晩参加しました。私は安置所にいるから、そこでテーブルをおいて会議をしたんです。最初はなんて言っているのか全く分かりませんでした。わからない中でも毎日会議に参加しました。5日か10日経って耳に入って来ました。会議で少しおかしく思うことや、疑問をもったことを全部聞きました。対策委が透明性持って会議をやるのを何日間か見て信頼感が沸いて来ました。

 それでもこの人たちが、自分たちの利益のために私を援助するのではないかと結構考えました。私が考える道とこの人たちが考える道と違う可能性もあるんじゃないか、遺族が望むのは「真相究明、責任者処罰」だけど、あの人たちが望むのは「非正規職の正規職化」ということ、ヨンギュンが掲げたプラカードのように。でもそれも私の気持ちと一致しないということではないじゃないですか。同じじゃないですか。順序が違うだけ。そしてどうせ自分一人で闘うことができるわけでもないし、だから一緒にやることにしたんです。

 その時対策委の人たちが私に重要なことを要求したんです。私の気持ちの中に少しでも心配事などあれば、全部話してほしいと言ったんです。そういうことは何かあるか? なぜそういうことを自分に要求するのか?考えてみました。対策委と私たち遺族間の信頼にひびが入り始めたら、この先うまくやっていくのが難しくなるという思いがはっきり浮かんだんです。あぁ、だからそういうことを言うんだな、その言葉通り、とても小さなことでも共有しました。だから対策委側と私たちと分離された感じではなく、同じ仲間として闘うことができたと思います。そういう部分は本当に対策委の側でよくやってくれたと思います。私はこういう人たちに会ったのは幸運だと思います。

国を信じて生きて来たのに…

 ヨンギュンが働いていたところが、公共機関じゃないですか。公共機関だから信頼して息子を送り出しました。事故3日目現場に行ったんですが、国家機密だと、その中の様子が外部に出たらいけないという機関だと言うんです。私は遺族だから当然自分の息子がどこでどうやって死んだのか、確認したくて行ったんです。

 アパート15階というぐらいの高さにもなる大きな建物で息子が仕事をしていました。階ごとにはしごで上がっていくのですが、はしごが横になっているのではなく、直角に立ててあるんです。それをつかんで上り下りしなければならないんです。息子がどんな訓練をしてきているわけでもなく…中に入ったんですが、薄暗いんです。私が行った時は機械が止まっていたんですが、機械を稼働している時は粉塵がものすごくたくさん舞うんです。ただ立っている時もそんなに明るくないのに、粉塵が舞えばどれほど透明度が落ちるかということです。行く場所ごとに石炭の粉が床一面に散らばっているんです。私たちが普通埃だと考えるそういう水準ではなく、雪のように積もっているんです。

 石炭を運ぶベルトコンベアーの威力がものすごく強いんです。私はヨンギュンが点検だけすると思っていました。落ちた石炭をまたすくい上げる仕事をしているとは思っていませんでした。そして表に出ているプーリー(滑車)に石炭の粉が挟まったりくっ付いたりすると、それを取り除かなければならないらしいんです。息子が仕事をした9、10号機は鉄板で覆われています。ベルトコンベアーに落ちた石炭をすくい上げようとすると、その中に体を半分にかがめて入って行かなければならないんです。その狭い場所で落ちた石炭をすくい上げようとする際、下手をすると機械に接近して入るしかないじゃないですか。そういう場所を継続して見回りながら動かなければならないんです。階ごとに上がったんですが、上がるごとに鉄門が両側に広がっていました。

 私の息子が夜一人でそういう恐ろしいところを…70年代などに見た炭鉱のようなそういうところで夜一人でいたということだけでも本当に大変だったと思うけど、そういう劣悪な仕事までしていたなんて…ヨンギュンが仕事をしていたところは、最も最新のものとして作られたところです。最新で、外から見るとものすごくきれいに見えるけど、その中で仕事する人はより劣悪で、危険な仕事をするように作られているんです。どうしてこの国の公共機関で仕事をこのようにできるのか…それがどうしても納得できないんです。

 最後に最上階に上がりました。ここが事故が起こったところです。掃除がされていて、事故が起こったのかどうか表示が一つもありませんでした。とても驚きました。私は単にそこに上がったわけではないじゃないですか。息子がなぜ死んだのか、どうやって死んだのか、確認したくて行ったんですが、何の痕跡もありませんでした。会社は蓋をしようとしているんだ、完全にそう思ったので、本当に…腹が立って仕方ありません。その上ヨンギュンが死んでから遺体の収容もできなかったのに、その横で機械を稼働したという話を聞きました。ヨンギュンがごみなのか…最低限、けだものが死んでも痛い思いをするのに、うちの息子は何か…

 記者たちを連れて来て、その中をそのまま見せたい気持ちでいっぱいでした。こういう現場がこの国にあるということをすべて明らかにしたい気持ちでした。そこを出てからヨンギュンの同僚たちに会いました。ヨンギュンより大きくても一つか二つ、そういう子供たちがそこで仕事をしていたんです。だからその子供たちに会ってこう言いました。あなたたちはここから出なさい。あなたたちの両親が知ったらここで働かせないようにするでしょう。ここから出てあなたたちも暮らしなさい。

 ヨンギュンの同僚たちも私の息子のように死ぬのではないかと恐ろしいんです。今ちょうど社会生活を始めたばかりの人たちじゃないですか。その大切な人生がここで終わるのではないか、しきりにそう思ったんです。そう思う私が本当に異常に思いました。その状況の中で別の人が見えるというのが…普通自分の息子が死ねば、その悲しみに暮れ、何も見えないじゃないですか。なぜ自分にはそう見えるのか。私が精神的に問題があるのか。だけど見えるんです。でも、何ででしょう。感じるんです。その人たちもそういうことに直面すれば、その両親たちも自分と同じ悲しみを味わうというのが。

私だけの悲しみではない

 私は今回のことを経験し、2か月経ってこの国が本当にどんなところなのかわかりました。国が構造的に、ものすごい多くの人たちをヨンギュンのように死なせているんだな、そういう苦痛を経験しているのは私だけではないんだな。本当に、本当に驚きました。1年に2400人が安全が守られず死んでいるのに、ものすごい大惨事にもかかわらず、それがただもみ消されて流されているんだな。国民のために国があるのではなく、政治や財界のために国があるんだな。

 私にとってこの国はとても暗く、血なまぐさい匂いがします。怒りで我慢できません。悔しい気持ちがとても強く、黙っていられないんです。私がどんな手段を使っても状況をひっくり返さなければ。そういう人たちだけ生きられる国ではない、その人たちは処罰され、国民たちが生きることのできる国を作りたいんです。私に何ができるのかよくわかりません。だけどヨンギュンのことを経験して、自分が知らなかった自分自身を知ったんです。ある人は大事を経験したら、精神が混乱し、苦しみに打ちひしがれしきりにもがくけど、私はむしろ精神がよりはっきりしています。どうすればこれをを解決することができるか、考えているんです。

 発言の機会がある時、最初は会社を罵りました。その次は政府を罵り、その次には国と財界は同じ穴のムジナだということを知り、さらに罵ったんです。ヨンギュンの同僚たちが非正規職じゃないですか。だから次に発言する機会がある時は、非正規職の人たちに向って力を合わせてほしいと要求しました。またその家族たちが一緒に一つになることを要求しました。こう要求するのは、個人と闘うのではなく、国と闘うことだからなんです。これは絶対そう簡単に解決することではないな。ものすごい困難な闘いになるな。毎日外に出るたびに、どうやってこの状況を大きく育てて行くのか考えました。

 一日一日言うべきことを文章にしたんです。毎日毎日2、3時間かろうじて寝ましたが、それでも横になってもパット起きて、泣いて、怒って、そうしていたんです。悔しさを文章で晴らさなければという思いがしたんです。人に対して伝えたい気持ちが大きかったんです。人の横で話す時は、私が感じる感情そのままを表現しました。たった1度でも嘘を言えば人はみんな分かるだろうと考えました。私は普通のおばさんだったじゃないですか。知識人たちのように、言葉を筋道立てて言うことができないことを自分でもわかっているんです。ただ自分の気持ちだけ伝えることができればと考えました。人々はそれでも私の気持ちが見えたのか、分かってくれたみたいです。だから継続して勇気を出して自分の仕事をやって行きます。

 対策委副委員長がこう言ったんです。オモニが仕事をしきりに大きくして、付いて行くのが大変だったと、その時は時間だけ過ぎて行き、解決方法はなく、何ができるという声も耳に入って来ないし…いらだちがあったんです。対策委の人たちが自分の限界を超えるほど本当に一生懸命やってくれました。私が辛い時、その人たちも同様に辛かったでしょう。寝ることも満足にできず、やることはたくさんあって、ストレスが多かっただろうに、悪いと思いながら迷惑かけました。だけどこの仕事を必ず解決しなければならないという気持ちが、その時自分にとって先立ちました。

 当然私だけでできることだとは思いませんでした。だけど何もやらずにただいたら自分が死ぬかもしれないと思ったんです。ヨンギュンのお父さんはしゃがみ込んで、一人で苦しみを鎮めるスタイルだけど、私は違うんです。この悔しさを自分一人で鎮めるのは本当に大変で、だったら私は本当に錯乱し死にます。それをわかっているから外に出て闘わなければならないんです。今私はヨンギュン一人の死とは見ません。ヨンギュンの死が大きな爆弾だったけど、そのせいで私にとってこの国全体の問題がとても大きく実感できたじゃないですか。

 今はまだ子供を失わないでいる家庭が、私のように苦しみをを味わうことのないように願う気持ちが大きいんです。知らなければ知らなかったし、社会がこうだったということ、今は肌身でわかったので、顔を背けることはできないんです。闘って負けたとしても。

 私がヨンギュンの写真を見ながらこう言ったんです。こいつめ、あんたは何でこんな目にあって、あんたがどうやって死んだのか、私がどれだけ悔しいか、人に毎日そのことを話しながら生きるようにしたのか、と。だけど、息子がそれを望んだわけではないじゃないですか。単に今状況がそうなっただけ。子供がそうなれば別の親は思う存分泣いてくれて、痛みを感じてくれるでしょう。そういうことをしてあげることができないのが…本当に心が痛むんです。ところで泣いたり苦しんだりするだけでは、私の子供に濡れ衣を着せられることになるし、国もただそのままで終わるじゃないですか。だったらヨンギュンが本当に望んだり、私が望むことは達成されないじゃないですか。これは子供が私の立場になったり、私が子供の立場になったりしても正しくないと思うんです。私は10回、20回死んでも生き返ってこうやって闘うつもりです。

人生のすべてを失い、どうやって生きなければならないか

 今回の事がある前まで私は前だけ見て生きて来たんです。とても生活が大変で。ヨンギュンのお父さんは体の具合が悪くて病院にいて、ヨンギュンを育てなければならないし、学校にも通わせなければならないし、カネを稼ぎ生活するだけで精いっぱいでした。私は高校を出てから社会生活を続けて来ました。結婚して夫の両親と少しの間暮らしたことがあるんですが、その時とヨンギュンが生まれた少しの間を除けば休んだことがないんです。今回のことがある前まで通った会社では2交代勤務をしていたんですが、休んだのはひと月にたった1日だけでした。私は仕事をいい加減にするタイプではないんです。会社に迷惑をかけないように一生懸命やりました。私が利潤を多く上げれば会社に長く通うことができるからです。私も一家庭の家長だったじゃないですか。首を切られたらいけなかったんです。

 大変でした。だけど子供がいたからよかったんです。おなかの中にいる時からヨンギュンが大きくなる姿を期待するその気持ちが本当に…よかったんです。子供がよく育ってくれさえすれば、それ以上望むことはなかったでしょう。ヨンギュンが小さい時、亀尾で暮らさず祖母の家と近い田舎の町内で過ごしたんです。臨皐(りんこう)書院の横にある臨皐小学校というところに通いました。息子は小さい頃からたくさん病気をしたんです。勉強に神経使わず気持ちを楽に健康に暮らすことだけ願いました。

 ある日ヨンギュンが、学校から大きな袋にぎっしり一杯銀杏を拾って持って来たんです。重くて匂いがするのに。ふだん私が体にいいという銀杏を拾う姿を見ていたようなんです。本当にうれしい気持ちになって、ゴム手袋をはめてきれいに洗って干してよく食べたことを思い出します。本当に子どもがかわいいことをしてくれたんです。嫁ぎ先の家に行くと、いとこたちはみんなヨンギュンより小さいんです。ヨンギュンが祝祭日の時、祖母の家に行く前に必ずスーパーに行くんです。行けばお菓子をいっぱい買うんです。「なぜ?これ全部あなたが食べるの?」と言ったら「いや、いとこたちに分けてあげるんだ。一緒に食べようと思って買うんだ」と言って、とてもうれしそうな姿を思い出します。

 だけど子供が学校に行く前に、私が少し心配したんです。このようにおとなしいこで、学校に行って友達に殴られて来たらどうしよう。だから子供に話したんです。「お前学校に行って誰かけんかを仕掛けて来たらどうすんの?」と言ったら、「お母さん、自分がただ言葉でちゃんと説得するよ」と言うんです。「じゃあお前一度殴られたらどうするの?」。それでも口で話して見ると言うんです。やれやれ私が教育をそうやってして来たのか。(笑い)どうしようか、毎日殴られて来たら? こう思いました。小さい頃からそういう気持ちだったのでヨンギュンは大きくても心がきれいで思慮深かったんです。

 大学は大邱にある永進専門大学へ行ったんです。亀尾からそこまで通学しました。ヨンギュンのお父さんが寄宿舎に行かせないと言ったんですよ。お父さんはヨンギュンが高校までは外泊もさせませんでした。よくない環境に置かれると思ってかなり心配したんです。川のほとりに放り出したのように、いつも何か間違いがないか心配したんです。万が一ヨンギュンがどこかに行くとするでしょう。そしたらお父さんは地図を探してどこへ行ったら何に乗って、またどこに行ったら何に乗り換えて、こういうことまで全部教えるんです。ヨンギュンは「お父さん、自分はこれはできる、どうかそこまでしないで」。そういう時もあったけど、悪く受け取っているわけではなかったと思います。お母さんとお父さんが自分のそばにいたい気持ちをよくわかっていたからです。

 今度の事が起こった最初の段階でセウォル号の遺族の方たちが来て私をよく知っていただいたんです。その人たちに一番初めに尋ねたかったことは、子供がいなくなってどうやって暮らして来たのか、だったんです。セウォル号遺族ヨンソギのお母さんは、子供がひとりしかいなかったじゃないですか。その子供を失ってその苦しみをどうやって耐えているのか、それが一番聞きたかったんです。私は本当に…生きていく自信がなかったんです。セウォル号事件が起こった時、私はその一年を暗く沈んだ気持で過ごしました。いくら光がさし明るい日でも自分の気持ちは本当に暗かったんです。あのお父さん、お母さんたちはどうやって生きていくのか。本当に大変だな。だけど生きる人は生きる、どうやっても生きるだろう…私は一つ橋を境に、他人事だと考えて生きて来たんです。ああいうことが起こることはないだろうと。ところが…自分がそういう目にあったんです。ある瞬間あの人たちが自分になったんです。

 社会がこうやって安全でないということを知らずに生きて、本当に…この…暗澹たる思い。(涙)我慢できない怒り、私の希望…私の人生…をすべて失ったじゃないですか。私たちはヨンギュンが小学校を卒業するまで、子供を自分たちの間に寝かしました。ヨンギュンの顔をお互いに見ていたんです。それほど大事な子供がそうやってひどい環境で働いていたこと、凄惨に引き裂かれて死んだじゃないですか。どんな親が私のように険しく、息子を…(すすり泣く)どうやって耐えればいいのかわからないし…今何を希望にして生きればいいのか…いくら考えてもないんです。思う存分に生きたくもなく、泣きながら行きたくもありません。私たちは家庭が壊れてしまったんです。

 遺影の中の子供を見ながらこう言ったんです。ヨンギュン…私はお前だ。お前は私で、お前がそうなってからお母さんは死んだも同然だ。お前は死んだけど、お母さんの中にいるから、お前がしたいことを私が全部やる。それが私の人生の目標になったんです。そういうことを握りしめて生きたくて。私は大して恐れることもありません。今持っているものは体しかないじゃないですか。闘って負けても私が失うものはこの体以外何がありますか?私はそう思っているんです。

短くて長かった時間

 最初の段階で対策委に(遺族の権限に代えるように)委任状を書いたんです。その時は元請け、下請けの人たちと対策委とで言い争いがあったんです。会社側は対策委に対して、なぜあんたたちだけ遺族と接触するのかと言うんです。自分たちも遺族に会って話をすると、だから市民対策委を後押しするために委任状を書いたんです。それがあれば、市民対策委があの人たちに振り回されず力を発揮して仕事することができると思ったんです。その委任状を3日後に書いたという話をあとで聞いてびっくりしました。私はその時間がものすごく長かったと思っていたんです。10日くらいは過ぎてから書いた感じでした。

 委任する時は私一人で決めました。気持ちが急ぎ、別の家族たちと相談しませんでした。そういう点は少し申し訳ない気持ちがあります。そういう重要なことなのに、自分一人で決めたというのが。いくらいい結果が出たとしても、相談はしなければならなかったんだけど…いつも気になっています。ヨンギュンのお父さんは家が亀尾じゃないですか。故郷が永川(ヨンチョン)なんです。だから昔から与党の側(現自由韓国党)の応援を一生懸命したし、今度の事を経験してからすごく混乱したんです。1か月くらい過ぎた時、子供を冷たいところに入れて置いて、どれほど待たなければならないのかと言ったので、私がこう言いました。子供を焼いて埋めるのと、霊安室の冷たいところに入れて置くのと何が違うんだと、どっちも戻って来ることはできない、私たちにとっては、ヨンギュンの濡れ衣を晴らすこと、悔しさを晴らすこと、それが大事なんじゃないのと説得したんです。ヨンギュンお父さんが何とか私の説得に共感してここまで来たと思います。

 闘っている間、家族たちが大きな力になりました。事故が起こった後、最初の日だったか、次の日だったか、西部発電キムビョンスク社長が来ました。靴も脱がないで入って来ていたんだけど、私はその人が西部発電社長なのか知りませんでした。お姉さんが最初に気づいて、「あんたどの面下げてここに来たんだ!」と怒鳴りつけて追い返したんです。次は私の妹が遮って止めてくれました。特に妹は私のそばでいつもスケジュール管理をしてくれて、私に代わってやってくれたのでものすごく頼りになったんです。ホントにすごく…感謝しています。

 産安法(産業安全保健法)改正ということで国会に行ったじゃないですか。3日間行きました。対策委を通して産安法というものがあることを初めて聞きました。事故を起こした元請けを処罰する法がある。それが国会を通過すれば元請けを処罰することが可能な条件ができる。遺族としては当然改正しなければならないと考えるじゃないですか。強力に要求しました。その過程は簡単ではありませんでした。国会議論の最初の日は、まあ何とか少しは通過する感じがしたんですが、次の日から状況が本当に状況がひっくり返ったり、是正されたり、行ったり来たりしました。なぜこの法が遮られ、通過されないのか理解できませんでした。時には大声を出し、時には泣訴しながらやりました。

 ところで通過した改正案には、ヨンギュンの同僚たちが入っていなかったじゃないですか(注2:発電所の業務は改正された産安法が規定する請負禁止業務に含まれなかった)。発電会社でケガをしたり、死んで行ったりするのもすごく深刻なのに、その法に含まれないので処罰することができないじゃないですか。ヨンギュン法と言っているのに、一体何をもってヨンギュン法だというのかわかりません。(事業主処罰規定も)上限に言及したが、下限については昔と同じで(注3:改正された産安法では安全措置を正しく講じない事業場で労働者が死亡した場合、「7年以下の懲役」から「10年以下の懲役」に事業主処罰を強化した。最初提示された改正案では上限刑を高めることと共に下限刑(1年以上)が明示されていた。下限刑は、産安法に違反した事業主が有期懲役や高額罰金を科されることになるのは、ほとんど困難だという批判から導入されたものだった)。誰が後退するような法案を作り、通過させたのか…政治や企業の息がかかったのではないかという思いがとてもします。民営化になり、人がこうやって死んでいくのを当然視する政府や企業の態度はいまだに直っていないし、本当にどうしようもないという思いがしました。

 (12月28日に)ムンジェイン大統領が私に面談要請をして来たんですが、その面談は私がしないと拒否しました。ただ慰労の言葉だけの面談は私が望むものではないし、その必要もないからです。人は大統領面談が特恵だの、ヨンギュンの死体商売だの、そういう話をする時のインターネットなどの書き込みを見たけど、私は動揺しませんでした。私が望むのは、人に被害が及ぶのではなく、多くの人たちを生きさせることじゃないですか。傷ついたり、神経は使いませんでした。私は…ヨンギュンを守ることができなかった親じゃないですか。それが本当に…子供に申し訳ない気持ちなので、私にとってはそれより大きな傷はないんです。

 新年になって慌ただしい気持ちになりました。新年や旧正月をはさんで、もう少し先になれば選挙もあるから、私たちが舌戦の中で葬儀を行うことができるよう(合意案に応じてくれるように)要求したが、だめだと思いました。人が一緒に闘ってくれて各地の百余りを超える団体が心をひとつにして、その後には合意しっかり引き出したと思います。

霊でも共に生きたいと思います

 合意案を引き出した次には、当然葬儀を行うことを考えました。ところが葬儀を行うんですが…すごく盛大にやったじゃないですか。私はそういう葬儀を生まれて初めて目にし、経験しました。こんなことはテレビで大統領の葬儀を行う時に見たことがあるだけでした。呆気にとられる思いでした。

 今回やっとヨンギュンの葬儀を行うということじゃないですか。私はいまだに子供の顔もちゃんと見ることができなかったが、ヨンギュンを泰安に送り出すまでは自分が子供を連れて暮らして来たじゃないですか。離れてからちょうど3か月でした。その間にたった1度家に来て、その時少し顔を見て、死んでからまた見たわけじゃないですか。霊安室では長くても何分間しか見ることができなかったんです。その後は一度も見ることができなくて、すでに葬儀を行い離れ離れになっているのに実感がないんです。何の夢を見ているのか、これが本当に現実なのか…ただ…よくわからないんです。ヨンギュンがすぐにでも来るような気がして…だったら私がこの間行き来しながら騒いでいたことは何なのか?子供が死んだと騒いでいたのに。

 子供が逝ったと言っていたのに、今でもどこかにいるような気がするんです。でも電話をしても受け取らず、カカオトークをしても反応がないんです。私のケータイ電話の中にヨンギュンの遺影があり、墓の写真もあります。子供が骨になり、お墓に入ったところまで自分の目で全部見たけど、私たちの子供が埋められたんだろうか?名前はあるんだけど、これが‘死んだということ’何だろうか…

 親たちはみんなそう感じると思うんです。涙も出ませんでした。抜け殻になった感じで生活しています。ただ呆気なく空しく、すべての事が…自分が…いくらよく食べて、よく暮らしても子供がいないのに、何がいいのか…いいことはありません。(沈黙)ヨンギュンが霊でも家に来て一緒に暮らせればと思うんです、霊でも。先日引っ越しをして、ヨンギュンの部屋をつくったんだけど、ヨンギュンがホントに来るだろうか?ヨンギュンにここがお前の部屋だと話したいんだけど、何の目印もないじゃないですか。(すすり泣く)自分のものがあるから当然自分の部屋だとお母さんがつくってくれたんだな、そうやって考えるんじゃないか、そう考えているんです。

 うちのお父さんが自分は一番苦しいのがそれだと言うんです。子供を一生見ることができないこと。ただ一度でも会うことができればいくら長い歳月が流れても待つことができるんだけど、それはできないじゃないですか。だから早く死んで子供のそばに行き、一緒にいたいと、それが幸せだと言うんです。私がこう言うんです。本当に霊がいて会うことができると確信できれば行けばいい、でもそれはいないじゃない。万が一ヨンギュンと会えずにただ死ぬだけだったら、もっとくやしいんじゃないか。そうやってお父さんを説得しているんです。

私たちが光になれば

 息子を失った親が目を開けて、ご飯を食べて暮らしている自体が毎日罪のような気がします。しかし死ななければ生きるということじゃないですか。生きていれば意味のある人生を送らなければならないでしょう。この間私が今回の事を経験して、人にたくさん助けられたじゃないですか。その人たちに私がいちいち挨拶ができません。だからこの人たちの家庭を守り、安全な社会をつくることでその一助となればと思うんです。

 ハンファ工場爆発事故の遺族たちに会いに行きました。事故が起こってから11日目でした。記者たちに頼ろうとしても取材に来ようとはしないし、本当に暗く落ち込んだそうです。力がしきりに抜けて‘このまま終わるんだろうか’と考えていたんだけど、私たちが行った時でした。記者たちと一緒に。その人たちは私に「お母さんは本当に立派だ。私たちはそうなふうにできないと思う」と言って、私がこう言ったんです。私も3か月前まではごく普通のおばさんだったと、こうやってできるのは私が立派なんじゃなく、母親だからできるんだと、母親だから息子の悔しい思いを晴らしてあげなければならないし、また私ができることはこれしかないのでやっているんだと、誰でもできることなので、勇気を失わずやって下さいと。

 その次からその人たちが記者会見もしたそうなんです。直接行って見てないけどインターネットに出るニュースを見ていたんです。声をあげているな、その時行ってよかった、そう思いました。今後も悔しい死に方をして、どうすればいいのかわからない人たちに会って、力を貸してあげなければと。自分もできることはあるんだなと。

 ヨンギュンの事故が起こってある団体から話を聞いたんですが、そこも非正規職という問題で論議が始まったばかりだった状態で、ヨンギュンの問題が発生してすぐ正規職に転換されたと言うんです。

 私たちが闘った余波が社会のあちこちに及んでいることに気づきました。私たちのやっていることがいい結果をもたらしているんだな。私がヨンギュンの死を無駄にしてしまえば、また何事もなかったように過ぎていく可能性があったじゃないですか。でもこうしてみんなが力を合わせて闘い、社会が少しでもよくなり、ある人にとっては私たちが光になっているんだな、もっと一生懸命やらなければと感じるんです。

 今、別の産業災害家族たちと1か月に1回ずつ会っています。遺族たちとは、ただお互いに会って話すこと自体が慰労になります。どんな話をしても大きな傷にはならず、別な見方をすれば自分の家族たちよりもむしろ理解がより深いこともあります。チェジュ島のイミンホのお父さん(サムスン半導体産業災害遺族)、ファンサンギお父さん、ヘギョンイとヘギョンイのお母さん…私にとって多くの慰めになりました。今までよく闘うことができるようにしてくれた人たちです。

 また別の被害者が出て、その人たちの過ちではないということを明らかにしようとする時、私たちも力になれるんです。安全ではないこの社会のひとつひとつがすべて暴かれ、人々の認識が変わることを望んでいます。安全についての話がうまずたゆまず継続して語られるようにして、今人権団体とかそういう人たちも粘り強く活動できるようにしたいし、誰か代わりにやってくれるわけではないこともわかっているので、私が率先してやろうと思っているんです。子供を失った遺族たちは死ぬまでこのハン(恨)が解けないということです。誰よりも切迫し、切実です。

 今は別に部屋をとって暮らしているが、泰安にいた時期ソウルに初めて来た時は、‘クルチャム(非正規職労働者の保養所)’に泊まりました。1月22日に来たんですね。クルチャムには各界各層のいろんな人たちがすごいたくさん来ます。高空籠城だとか、コルトコルテック、そういう人たちの闘いを見ながら、この人たちが死ぬか生きるかで闘っていることを強く感じます。私はこのようなことがあったことを知らずに暮らして来たんです。クルチャムではそのような人たちにご飯や寝場所を提供しているじゃないですか。社会にこのようなところがあるのはすごくいいことです。初めて知りました。このような所があるということを。

 私がはじめて知ったことは一つや二つではありません。私が生きているこの世の中が明から暗へ入りこんだ感じだったんです。その暗闇の中でも明るさを取り戻すために闘っているということ、暗闇の中に明るいところが存在するということ、ああ、希望があるんだな、そういうのを見たんです。闘えばいいんだ、労組があれば、自分たちの権利を守ることができるということをここで学びました。

 クルチャムに来る時、初めから保護される感じを受けました。この人たちは誰かを苦しめることを絶対に許さない人たちじゃないですか。外では誰かが大変な目に合うとか、誰かが苛めるなどと考え、毎日防御的な姿勢なんですが、ここはそういうのはないじゃないですか。痛みも共有し暖かく包んでくれて、手助けする人たちを見ると、本当に次元が違うんです。私が何を言っているのか理解できますか? 共に生きることによって力になるので、私は闘う人たちのそばにいると力が出ます。

http://m.pressian.com/m/m_article/?no=262176&ref=google#08gq (『プレシアン』2019.10.24 上)

http://www.pressian.com/news/article?no=262190 (2019.10.26 同 下)