<労働史を書き直したアサヒガラス闘争、9年間の取材記>
(「時事人」ホームページの記事を翻訳転載)
パク·チュンヨプ記者 「ニュースミン」
「上告を棄却する。」 最高裁判事の一言が法廷に響いた。 傍聴客は沈黙の中で歓呼した。 法廷を出るアサヒガラス非正規職労働者の顔が華やかに咲いた。 7月11日、最高裁はアサヒガラスの不法派遣を認め、解雇労働者たちの手をあげた。 アサヒ非正規職支会組合員らと抱擁し、彼らを祝う人々の行列が最高裁庁舎前に長く並んだ。 振り返ってみると、彼らが9年以上歩んできた闘争の旅程には、この日のように常に人々でいっぱいだった。
一緒に喜びを分かち合う行列に、組合員のアン·ジンソクさん(53)も立っている。 長い歳月がアン氏の頭の中をかすめた。 長い間、路上で経験したことや縁も思い浮かぶ。 何も持っていないため、大きく失うこともない非正規職人生を今回の闘争にかけた。 闘争勝利を成し遂げれば何か「失うもの」が生じるだろうし、それで常に気をつけようと繰り返していた彼もこの日だけは心配を払い、明るい顔で人々に笑いを見せた。
慶北亀尾市のある工場で2015年5月に始まった話はどうして9年間続き、2024年最高裁の判決にまで至ることになったのだろうか。 亀尾公団初の非正規職労働組合設立、労組設立一ヶ月で178人「メール解雇」、企業監視と労働者保護に無関心な亀尾市庁での座り込み、再捜査にぐずぐずする検察に抗議する空前絶後の検察庁占拠座り込み、捜査審議委開催の末に起訴されたアサヒガラス(AGCファインテクノ韓国)前代表に対する国内初不法派遣罪懲役刑宣告、「派遣判事」という嘲弄まで出てきた控訴審裁判所の無罪宣告とこれに対する最高裁の破棄差し戻しまで。
2015年からこの闘いを記録した。 最初は「扱うに値する地域事案」程度と考えた。 ここまで来るとは想像もできなかった。 タイムラインを要約するにも息詰まる歳月を過ぎ、アサヒガラス闘争は韓国労働史の記念碑的事件として位置づけられた。 小説のように非現実的でもあるこの話を調べるには、亀尾工業団地という背景から組合員の面々、彼らが繰り広げてきた闘争の主要分岐点まで一つずつ探ってみなければならない。
■ 「灰色都市」亀尾に流れてきた人々
アン·ジンソク氏は非正規職を転々とし、働き口を求めて亀尾市に流れてきた。 亀尾は昔も今も大邱、慶尚北道北部地域など隣接都市で就職のために集まる都市だ。 アサヒガラス組合員22人は概してアン·ジンソク氏のように非正規職を転々とした人々だ。 正規職出身もいたが、その正規職の働き口も不安定な職場ではあった。 地域産業再編の振幅が大きかったためだ。 組合員たちは過去に興った繊維産業、家電産業で正規職の働き口を経た。 だが、これら産業の衰退と共に会社が廃業したり合併して退職した。
この地域の労働者闘争は1990年代の景気低迷と共に次第に静まった。 労使協調的な性向を帯びている韓国労総組合員が絶対多数である状況で、2010年代に入って散発的に争議が起きたりもした。 しかし、労働運動のレンズで見ると、亀尾市は全般的に灰色の光と言わざるを得なかった。
2010年、アン氏はアサヒガラスの下請け会社GTSに就職した。 その後、幽霊のように暮らした。 出勤と帰宅だけを繰り返す日常を送った。 休日さえ守ればいいと思った。 低賃金と長時間労働も甘受できた。 一生不安定な働き口で最低賃金を受け取り生活したためだ。 だが、3組3交代で運営される工場はアン氏のそのような小さな願いも聞き入れなかった。 1ヵ月に1日しか休まない場合もある。 不満を吐露しても良くなることがないと退社まで考えたアン氏は、水面下で進行された労組設立の便りに耳を傾けることになった。 2015年、現アサヒ非正規職支会長のチャ·ホノを中心に労組設立が推進されていた。 労組設立D-1だった(※翌日に控えた)2015年5月28日。 夕方の勤務交代時間直前、労組設立準備により「出入り禁止」がかかっていたチャ·ホノ氏は会社の目を避けて工場の控室に入ってきてこのように叫んだ。
「私がここにまた入ってきました。 いよいよ労組を設立します。 明日から労組活動を本格的に始めます。 同志たち、加入してください。 労組だけが会社を変えることができます。 誰でも加入できます」
■ 亀尾工業団地初の非正規職労組
チャ氏はすぐに退場しなければならなかったが、彼の訴えは下請け労働者の心を動かした。 2015年5月29日、亀尾で初めて非正規職労働組合が設立された。 上級団体のない「アサヒ社内下請け労組」だ。 当時は金属労組亀尾支部に加入しなかったが、その後加入することになる。 管理者たちに返事もできなかった下請け労働者たちは労組設立後、労働条件改善を要求して初めて工場ライン内で労組ベストを着てはちまきもしてみた。 GTSと団体交渉も行った。 会社は労組に「貴下」という言葉を使って公文書を送った。 アサヒガラス非正規職組合員の人生に新しい局面が広がっているようだった。 しかし会社で非正規職労働者を呼ぶ呼称に「野郎」の代わりに「貴下」がついたというやりがいを感じる時間はそれほど長くなかった。
労組設立一ヶ月後の6月30日、アサヒガラスは事業場内の電気工事をするという名目で全職員の休日を施行すると知らせた。 出勤しなくても良いとは、アン·ジンソク氏は「最高」と叫んだ。 ところがその日、彼を含めGTS所属労働者全員に携帯メールで解雇が通知された。 GTS所属労働者が工場を空けた隙に乗じて、アサヒガラスは用役警備を出入り口に配置し組合員の出入りを阻んだ。 工場内の持ち物を取りに行くこともできなかった。
2015年頃、アサヒガラスは産業再編に合わせて構造調整を計画していた。 プラズマディスプレイパネル(PDP)市場縮小に備えて構造調整時に労組結成の可能性を考慮し、対策をすでに立てておいた状態だった。
アサヒガラス内部文書「S-Project推進計画案」によれば、当時アサヒガラスはグループ会社の韓国法人4ヶ所中PDP生産業者である「アサヒPDガラス韓国」と「ハンウクテクノガラス」を構造調整し、これにより発生しうる労組設立と紛争時対応、懲戒マニュアル、警察と労働部の協力方案などを用意した。
しかし、いざ労組が設立されたのは、アサヒガラス(現AGCファインテクノ韓国)だった。 労組設立後、アサヒガラスは経営上の理由を挙げて労組が設立されたGTSと契約を解約し178人を一斉に解雇した。 形式的ではあるが設定しておいた請負契約期間が5ヶ月余り残っている状況だった。 その空席には他の関係会社であるアサヒPDガラス韓国、ハンウクテクノガラス正規職を配置した。 当時、アサヒガラスにはGTS以外にも社内下請け2ヵ所があったが、労組が結成されたGTSだけを選んで全員解雇した。 闘争の始まりだった。 始める時は誰も9年という時間を予想できなかったが。
■ いろんな人と一つになった感じ
労組に初めて接した当時、アン·ジンソク氏は多少懐疑的だった。 加入当時には「非正規職人生、労組の途中で首になれば他の工場に行けば良い」という軽い気持ちだった。 労組活動に対する大げさな計画もなかった。 ただし他の職場に通うとしてもこれ以上良くなるという期待をすることはできないと考え、それでも体験したことのない労組活動は好奇心にでも一度やってみる価値があるという気持ちだった。 だが、会社から投げ出されて感じた侮蔑感にアン·ジンソク氏は本格的に労組活動に乗り出し始めた。
労組設立当時、組合員教育に出た労務士が「もし解雇されれば判決まで5年はかかる」と言って途方に暮れた。 組合員は労組結成当時138人だったが、闘争する9年間で22人に減った。 初期に積極的に組合活動に乗り出し、他の人々を糾合した組合員たちは希望退職提案を概して受け入れた。 工場で初めてはちまきをして仕事をした経験、休み時間に集まって闘争歌を歌った経験、使用者側(会社側)と交渉対象として並んで座ってみた経験が強烈ではあったが、多くの人々が生活の困難と長い闘争に対する悲観の中から去っていった。
工場から退出された後、直ちに亀尾市庁前にテントを張った。 アサヒガラスは、亀尾市役所からさまざまな特典を受けた会社なので、市役所が問題解決に乗り出すことを要求した。 市民に大量解雇事態も知らせた。 当時、ナム・ユジン亀尾市長は特別な役割を果たさなかった。 2016年3月、中央労働委員会が契約解約を不当労働行為と判断したが、亀尾市は2016年4月、座込み場の強制撤去に乗り出した。 組合員たちは座込み場をめぐって紐で体を縛ったが、撤去人員700人余りが座込み場を崩した。 座込み場は2016年メーデーの5月1日、工場前に再び設置された。
中央労働委員会の判定に会社側は行政訴訟を提起した。 裁判が進行される間、組合員たちは朴正煕(パク・チョンヒ)生家前の朴槿恵(パク・クネ)退陣要求デモ(2016年11月)に出た。 2017年4月にはアサヒ非正規職支会のオ·スイル組合員がソウル光化門広場近隣で27日間断食高空籠城をした。 この高空籠城は全国的な連帯闘争の出発点となった。 現代自動車の非正規職、コルトコルテック、東洋セメント、ハイテックRCDコリア、世宗ホテルの解雇労働者と共に座り込み声を上げた。
2017年8月には会社側の不法派遣を起訴しろと要求するために大邱地方検察庁前でテント座り込みに入った。 検察庁前テント座り込み当時、大邱地検に対する国政監査も開かれたが、正義党の故ノ·フェチャン議員がテント座り込み場で解雇組合員らに会った後、国政監査場でノ·スングォン当時大邱地検長にアサヒガラスに対する迅速な捜査を要求することもした。 ノ地検長は「迅速な捜査を行う」と答えたが、同年12月、検察は「不法派遣の疑いはない」とし、会社側を不起訴にした。
不起訴処分後、大邱寿城区庁は大邱地検前のテント座り込み場を撤去した。 しかし労組は2018年11月、再びその場でテント座り込みを始めた。 12月には大邱(テグ)地検のロビーに入り、座り込みを行った。 アン氏もその時、検察庁庁舎のロビーに座って会社側の起訴を促した。 拘束を覚悟した。 座り込みが不法でも関係なかった。 当日の夕方、全員警察に連行されたが、アン氏はその時連行されながらも苦痛の中の解放感を感じたと話した。 “いろんな人と一つになっているという感じ”だった。
2019年2月、最高検察庁捜査審議委員会はアサヒガラスの不法派遣起訴を勧告した。 2日後、検察は不法派遣の疑いでアサヒガラスと当時の代表を起訴した。 解雇後4年ぶりのことだ。 以後、続いた不法派遣関連の民事·刑事裁判では、相次いで組合員が勝利した。 2021年8月、大邱地方裁判所金泉支院は派遣法違反罪で元アサヒガラスの原納武元代表に懲役6ヶ月執行猶予2年、GTSのチョン·ジェユン元代表に懲役4ヶ月執行猶予2年を宣告した。 ただ一度、アサヒガラスが起訴された刑事事件控訴審で無罪が宣告されたことがある。 控訴審裁判部(大邱地方裁判所第4刑事部)は、原審裁判部で認めた5つの不法派遣要素をすべて覆し、無罪を言い渡した。 しかし、最高裁が破棄差し戻しし、この控訴審判決は再び覆された。
組合員たちは判決を待っているだけではなかった。 闘争の舞台を全国に広げていった。 2018年3月、東京都にあるアサヒガラス本社を訪れ、問題解決を要求した。 全国労働者闘争事業場はもちろん、ペク·ナムギ農民死亡以後の闘争、泰安火力発電下請け労働者キム·ヨンギュン闘争、星州サード配置反対現場のように連帯が必要なところに積極的に乗り出した。
彼らの悩みはアサヒガラス不法派遣問題から韓国社会非正規職一般が体験する問題に広がった。 アサヒ非正規職支会のチャ·ホノ会長は「非正規職問題を解決する運動でなければならないと考えた。 そのための連帯に重点を置いた」と説明した。 以後、彼らは「非正規職はもうやめて」共同闘争の主軸になる。
■ アサヒ闘争の輝かしい瞬間
生計に汲々としていた組合員たちが全国を回りながら連帯できた理由は、彼らが苦しい時に先に多くの連帯を受けたためだ。 労組設立初期からアサヒ社内下請け労組は金属労組KEC支会の全幅的支援を受けた。
慶尚北道亀尾の半導体業者労組であるKEC支会は支会事務室をアサヒ社内下請け労組に貸し、座込み場撤去など危機状況から随時飛び出して共に戦った。
KEC支会のキム·ソンフン事務長はその理由についてこのように話した。 「私たちも弾圧を経験し、多くの連帯を受けながら成長した。 民主労総加入労組でなくても民主労組は支援するという民主労総の文化がある。 10年の年代は大した意識があるからではなく、やってみると関係性というものが生まれるからだ」
星州THAAD反対運動に乗り出した慶尚北道星州郡小城里(ソソンニ)の住民たちもアサヒ非正規職支会の最高裁勝訴と復職を祝った。 イム·スンブン小城里婦女会長は「うちのおばあさんたちにアサヒ青年たちは初めての情だ。 その同志たちだけは私たちが忘れることができない。 苦しい時に多くの力を得た」と話した。
8月1日、解雇3321日ぶりにアサヒガラス非正規職労働者が工場に戻った。 アサヒ非正規職支会闘争を見守った人々は、彼らの話から熱い感情を感じる。 だが、アサヒ組合員らは「弱さ」を隠さない。 非正規職としての剥奪感、不足した自尊感、闘争中にも生計のために他の生業に足を踏み入れなければならなかった疲れも全て表わして共有する。 代わりにアサヒ非正規職が表わした「弱い」席を彼らと連帯する人々が埋めた。
闘争の主要局面で「揺れる個人」を隠さずに共有し、彼らは難関を跳び越えた。 会社側がチャ·ホノ支会長を除く全員復職を提案して交渉しようとした時、誰もが簡単に振り切ることができただろうか。 だが、彼らは隠さず、個別的に決定もしなかった。 みんな集まって会議の末に妥協しないと決定を下した。 アサヒ闘争の輝かしい瞬間と評価される部分だ。
かなり多様な労働事案を取材してきた。 アサヒ闘争取材は非正規職にとって労働とはどのようなものかを計る機会でもあった。 「復職した」という言葉で闘争の記録に終止符を打つことはできないだろう。 この取材をしながら手帳に何度も「侮蔑感」「連帯」「非正規職の主体的運動」という単語を使った。 今後、彼らが書いていく別の話も喜んで記録していくつもりだ。