旭支会との団結かけAGC株主総会行動(月刊労働運動5月号投稿)

AGC株主総会行動の報告記事を『月刊労働運動』5月号に投稿しましたので紹介します。

旭非正規職支会支援共闘会議 事務局長 清水彰二

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 3月27日、旭非正規職支会支援共闘会議は、東京會舘で開催されたAGC第95回株主総会に対して、抗議宣伝行動を行い、約30人が集まった。

 昨年のAGC株主総会に対しては、韓国から旭非正規職支会の組合員3名を迎えて、初めて株主総会への抗議宣伝行動を行った。株主からも驚きと怒りの声があり、株主総会で質問する株主まで登場した。

 この1年、闘いの前進は、韓国での違法派遣での刑事告訴、民事での地位確認勝訴と、AGCを追い詰めてきた。

 今年の株主総会は、AGCをさらに追い詰め、解雇撤回・組合員の正社員としての職場復帰を実現する大きな闘いになるはずであった。

 ところが、今回の新型コロナ感染拡大。組合員が来日して闘うことはできなくなってしまった。工場のある亀尾(クミ)は韓国での感染の中心となった大邱(テグ)に近く、毎週行ってきた工場前での水曜文化祭もできなくなってしまった。

 日本の支援共闘会議として、今年のAGC株主総会をどのように闘うのかということについて、議論を重ねてきた。株主総会抗議宣伝行動を、日本の支援共闘会議として独力で行うことに異論はなかった。

 その上で、実は、これにあわせて、島村琢哉社長の住む鎌倉市七里ガ浜でのデモを企画した。韓国からすでに5回も来日して本社への要請行動を行ったが、本社は一度としてまともに対応したことがない。韓国会社が適切に対応している、本社が対応すべき立場にはない、と破廉恥にも繰り返してきた。韓国で違法派遣で子会社と本社から出向していった当時の社長・原納猛(はらのたけし)が起訴されたが、原納は退任して、雲隠れしてしまい、本社は知らぬ存ぜずを決め込んでいる。島村社長は、日本経済新聞の連載記事に登場して「オール・フォー・ワン、ワン・フォー・オール」が心情、地元のキリスト教会に通って社員全員の幸福を祈っているなどと語り、のうのうと暮らしているのだ。許せないということだ。

 3月27日の株主総会の日の午後に、すでにデモ申請を行っていた。ビラも周辺住民に読んでもらうものを作っていた。決行するかしないかで、けんけんがくがくの議論の末に、デモは中止の決定を行った。それだけ今回の新型コロナ感染問題は深刻であるという認識で一致しての苦渋の中止決定だった。

 しかし私たちの思いと決意は変わらない。私たちはAGC本社と島村社長を許さない。旭支会138人を、労働組合を作ったことによって、解雇に追い込んだのはAGC本社と島村社長の階級意志なのだ。新型コロナ感染拡大と世界大恐慌への突入の中で、AGCの旭支会不当解雇との闘いは、世界中の非正規職を撤廃する闘いの爆発によって、労働者の新しい社会を建設する闘いになった。

韓国非正規職労働者の新たな闘い開始(チャホノ氏のフェイスブックより)

昨日記者会見をした。 司会をした。 久しぶりにメディアもたくさん来た。

韓国空港非正規職キム太一支部長が発言した。 仁川空港航空会社非正規職2千名が解雇されたと言った。

随所で勧告辞職と無給休職が進行されている。 皆非正規職で特殊雇用労働者である。

職場相談119は3月に3,400件の情報提供が入って来たと言う。 一日に100件を超える。

「非正規職もう終わりに大統領府行進」を巡り悩みが多かった。

政府は死ぬとか首になる非正規職問題は関心がなくて。 資本は危機を機会にして。

私たちはじっとしていることができない。 このままではいつでも思うままに切る容易な解雇が作られる状況である。 朴槿惠もできなかった容易な解雇。 非正規職だけでとどまる問題ではない。

当選直後に仁川空港の非正規職を正規職化すると訪れた文在寅(ムン・ジェイン)大統領。

企業に100兆ウォンを支援するなんて…。

資本は”持ち主のない金”を受け取ろうと騒ぎ、労組を無力化させようとすることは火を見るよりも明らかだ。

非正規職労働者らの大統領府への行進は、闘争の始まりだ。

政権が崩壊して、一生姫のように生きてきた朴槿恵(パク・グンヘ)が刑務所に押し込まれように。 韓国社会の最も底辺の労働者たちの決死闘争が、20年下半期にどのような情勢を作り出すかは、誰にも分からない。

生計支援金を超えて、非正規職制度撤廃まで闘う非正規職労働者らの自信が求められる。

懲罰チョッキを言われるがままに着たが、 今は闘う。私の夢は ‘労働者’です。 (チャホノ支会長)

OhmyNews2020年4月7日の記事を許可を得て翻訳掲載しました。

民主労総旭非正規職支会長チャ·ホンホ
20.04.07 08:41l最終アップデート 20.04.07 08:41l チョン·ヒョンジュ(chamir)

 全国民主労働組合総連盟(民主労総)旭非正規職支会長。日本の戦犯企業である三菱系列社の旭ガラスは”雇用創出”という名分で、外国人投資企業として亀尾に工場を建てた。 同社は韓国政府から12万坪にのぼる工場敷地を50年間無償で賃貸し、5年間国税全額減免、15年間地方税50%減免の特典を受けた。 しかし、雇用創出とは程遠い社内下請けで、非正規職労働者に正社員のような仕事をさせ、最低賃金だけを支払い、さまざまな差別を繰り返してきた。 15年、非正規職労組が作られると、1ヵ月後、下請け会社のジーティーエスの社員全員をメールで解雇した。 その時からこれまで、旭非正規職労組は、長い戦いを続けている。
 全国民主労働組合総連盟(民主労総)旭非正規職支会長=日本の戦犯企業である三菱系列の旭ガラスは、”雇用創出”という名分で、亀尾に工場を建てた。 同社は韓国政府から12万坪にのぼる工場敷地を50年間無償で賃貸し、5年間国税全額減免、15年間地方税50%減免の特典を受けた。 しかし、雇用創出とは程遠い社内下請けで、非正規職労働者に正社員のような仕事をさせ、最低賃金だけを支払い、さまざまな差別を繰り返してきた。 15年、非正規職労組が作られると、1ヵ月後、下請け会社のジーティーエスの社員全員をメールで解雇した。 その時からこれまで、旭非正規職労組は、長い戦いを続けている。

“学生時代、労働者になると思ったことはありません。 労働組合が何かも知らなかったんです。”



 慶尚北道尚州(キョンサンブクド·サンジュ)が故郷であるチャ·ホンホさんは人文系高校を卒業したが、家庭の事情で大学進学は夢にも考えられなかった。 勉強にも関心がなかった。 漠然と”今度は何でもして食べていく”と思っただけだった。 その時の彼は他の友達のように”労働者とは’苦労して生きていくことができなかった人々’という程度の認識だけをもっていた。



 自分が後で労働者になり、労働組合を作り、労働者に誇りを感じる大人に成長するとは想像もできなかった。 小中高の12年間、学校は彼に労働の価値や労働者の権利を教えておらず、幸せな労働者として生きる方法も教えていなかった。 彼は大人になってから労働組合を通じてこうしたことを学んだ.



 1995年、23歳のチャさんは亀尾に上って韓国合繊に就職した。 同年12月2日、タンクローリー内で作業していた韓国合繊の労働者2人が死亡する労働災害が発生した。 このことが発端となって韓国合繊労組は激しい闘争を始めた。 最後には合意には至ったが、その過程で2人が焼身し、45人が拘束される傷を残した。

 ”あの時、私のように新米労働者だった20代の同僚が拘束されました。 その友達のお母さんと一緒に面会に何回か行きました。 その母が善良なうちの息子がどうして監獄にいるのか理解できないと言って泣いた姿が記憶に残っています。”



 彼は韓国合繊で1年間働き、転職した。 最新の設備なので、働きやすいという噂の新しい金剛化繊(クムガンファソム)に何人かの仲間と一緒に行った。 そして、彼が入社してから3年ぶりに金剛化繊にも労働組合ができた。 繊維業界は好況が続き、会社の売り上げも伸びたものの、労働条件は改善しなかった。



 03年、金剛化繊の労組は当時、3組3交代で勤務していたのを、4組3交代に変えるため、初のストに踏み切った。 月の売上高が100億ウォンを超える工場を3日間稼動させた。 その時、彼は休まず稼動していた機械が停止した静かな工場の中を眺め、高価な機械と巨大な工場も労働者の血と汗なしには何も作り出せないことを実感した。



 ストの結果、会社側は4組3交代勤務に合意したが、翌年3月、金剛化繊が廃業し、労働者を解雇した。 その過程で車憲鎬(チャ·ホンホ)氏をはじめとする組合員たちは、買収会社の雇用承継を要求し、565日の長い戦いを繰り広げた。 この闘争で彼は手配されて9か月余り投獄された

昼食時間20分、懲罰チョッキを着せる非正規職差別



 07年6月、執行猶予判決を受け、釈放された氏は、第一毛織で2年間働いた後、09年9月、旭グラスの下請け会社、ジーティーエスに入社した。 旭ガラスでは、800人の正社員のほか、請負契約を交わした3社の下請け会社の非正規職職員300人が働いていた。 請負契約を結んだというが、実際は同じ工場で旭硝子の管理者の監督を受け、正社員と同じことをした。 典型的な不法派遣だった。



 彼は一般の会社に例えると”班長”に当たるリーダー格だったが、仕事中に自分を含む同僚たちの不当な待遇に一言も言えなかった。 非正規職は、同じ仕事をしても退職するまで最低賃金だけが支払われた。 もちろん、経歴も認められなかった。 生計を立てるために時間外勤務をして残業手当をもらわなければならなかった。 1ヵ月に2回休むために週末には12時間交代をした。

 ’昼食時間が20分しか経ってないんです。 機械を止めずにずっと回さなければならないから交代でご飯を食べさせました。 会社食堂があっても移動時間がかかるから、飲食業者から弁当を工場の休憩室まで配達しました。 食事代に配達費用まで含まれて食事の質が大きく落ちました。 それも交代で食べなければならないので、冷めてしまったご飯を食べました。 そのためカップラーメンを買ってご飯と済ませる場合がよくありました。”



 また、下請労働者には特別な規定もなく、”懲罰チョッキ”と呼ばれる赤色のチョッキを着せることもあった。

 ”例えばこんなことがありました。 20分以内に全てのことを解決しなければならないので、ある同僚がトイレに室内靴ではなく安全靴を履いたまま入りました。 それを見た管理者が本庁の管理者に報告して懲罰チョッキを着せました。 一度着ると短くて1週間、長くて1ヶ月程度着ていなければなりませんでした。”



 雇用も不安定だった。 物量が減れば勧告辞職に追い出し、物量が増えれば送り出した人々を再び電話して呼び寄せることが繰り返された。

労組結成を理由に解雇通知を受けた178人

 旭非正規職支会の支会長チャ·ホンホと組合員ら旭ガラス非正規職支会の組合員らは解雇された15年からこれまで、会社前の座り込み場で24時間リレー座り込みを続けている。 数年が過ぎ、座り込みには23人の組合員だけが残った。 2019年8月23日になって労組員を復職させるよう1審判決が出たが、会社側はこれを不服として上訴している。
旭非正規職支会のチャ·ホンホ支会長と組合員ら旭ガラス非正規職支会の組合員たちは解雇された2015年から現在まで、会社前の座り込み場で24時間リレー座り込みを続けている。 数年が過ぎ、座り込みには23人の組合員だけが残った。 2019年8月23日になって労組員を復職させるよう1審判決が出たが、会社側はこれを不服として上訴している。




 彼は最低賃金だけでは生活が難しく、代行運転までしながら、ジーティエスで働いた。 そのようにして6年目になった2015年、これ以上耐えることが難しかった。 同年5月、アサヒ非正規職労組が作られた。 反応は熱かった。 ジーティーエスの全体労働者の半分を優に超える138人が労組に加入した。 しかし、労組設立から1カ月後の6月30日、支会長のチャ憲鎬(チャ·ホンホ)氏をはじめとするGTSの非正規職178人はメールで解雇の通知を受けた。 そして翌日、元請のアサヒグラスはジーティエスとの請負契約を解約した。 この時から長い復職闘争が始まった。

 ”最初はこんなに長くなるとは思いませんでした。 悔しいから、正当だから、私たちが追い出される理由がないから戦ったのです。 労働者が不当な目に遭うと、真っ先に訪ねていくところが労働部なのに、労働部に告訴してから2年1ヶ月後にやっと結果が出ました。 長くなるほど耐えるのが大変だが、私たちの支会はもっと強くなりました。”



 2017年、労働部はGTS労働者178人を直接雇用せよという行政指示と共に17億8千万ウォンの過料処分を下し、この事件を検察に提出した。 しかし、旭ガラスは労働部の判決に応じず、行政訴訟を起こす一方、解雇者178人を希望退職と懐柔した(このうち150人が希望退職で発った)。 そして、解雇から満4年が経過した2019年8月23日、1審判決が下された。 労組の勝訴だった。 しかし、歳月が経つ間、旭非正規支会には23人の労働者だけが残った。 そして会社はこれさえも応じられず、上訴した状態だ。



 日本の戦犯企業である三菱グループ系列会社の旭ガラスは、2004年に韓国政府が”雇用創出”のために誘致した外国人投資企業だ。 彼らが受けた恩恵はものすごい。 12万坪にのぼる工場敷地を50年間無償で賃貸し、5年間国税全額減免、15年間地方税50%減免の特典を受けた。 旭ガラスはこのような恩恵を受け、10年間、年平均売上1兆ウォンの収益を上げ、社内留保金も7200億ウォンに達した。 しかし、雇用創出という名分とは違って、同企業で働く労働者は不法派遣、不当解雇人権侵害に苦しんできた。



チャ·ホンホ氏の争いが長引くにつれ、彼の家族たちはどう耐えているのだろうか。



 チャ·ホンホさんの家族闘争が長引くにつれ、”妻と娘たちに対する申し訳なさは終わりもない”というチャ·ホンホさんは、”それでも労働組合を通じて堂々とした労働者として生きて行くことができて幸せだ”と話した。

写真は昨年、復職判決後、しばらく暇を作って2人の娘と亀尾市(クミシ)の金烏山(クムオサン)に登った時。


 チャ·ホンホさんの家族闘争が長引くにつれ、”妻と娘たちに対する申し訳ないというチャ·ホンホさんはそれでも労働組合を通じて堂々とした労働者として生きていくことができて幸せだ”と話した。

“妻と娘たちに対する申し訳なさは終わりもありません。”

チャさんは20代から労働組合を経験し、ますます真剣になった。 非正規職として働きながら、再び労働組合を作った時、妻はとても苦しんだ。 あなたは あなたが したい ことばかり してるのか? 家族は後回しで同僚や労組が優先なのか”という恨み交じりの言葉を聞いたりもした。 彼女は解雇されて以降、夫と父親の役割ができていないと言った。

“経済的な責任も果たせず、隣で一緒に生活し、面倒を見てあげたり、話を聞いてあげられなかったりして、パパがいないのと似ています。 早く旭に勝って、お金も持ってきて、日常も返したい気持ちです。 妻と夕方にビール一杯して、子供たちとたまに海旅行にも行ったのがいつなのかわかりません。”

しかし、日常を失ったチャ·ホノさんは、”労働組合をしたからこそ幸せだ”と話した。

“願っても願わなくても、自分の人生が20代から労組と関わってきたのに、とても幸せです。 労組を作って争いながら私と同僚たちは堂々たる労働者に変わりました。 “以前は懲罰チョッキを着せればそのまま着ましたが、今はそのような状況になれば戦うと言います。 自尊心が回復し、自分の声を出しながら無視されずに生きられるようになりました” 非正規職労働者がますます多くなる今の世代が労働組合に会えなければ、未来は絶望的になりませんか。”

コロナ19で打撃を受ける非正規職労働者

 IMF事態以後、生じ始めた非正規職は毎年増え続け、今は1000万を超えている。 非正規職労働者らは、”今、働いているところが自分の職場だという愛着もなく、同僚らと深い人間関係もなかなか結んでいない。 その一方で、同じ所へ何年も通う。 “しばらく”ではなく青春を全部送るのだ。

 また、非正規職労働者は”私が勉強ができないから非正規職になった、私のように愚かな人は非正規職の仕事しかなく、無視されて働くのが当然だ”という間違った考えをする場合が多い。 小中高校の教育を全部受け、高校まで出ても労働者の権利をどう求めるべきか、労働3権と労働組合についてまともに学んだこともない。

 旭正規職支会の組合員たちは非正規職労組を作って解雇に立ち向かい、”テレビには出ない”多くの労働者に会って変わっていく。 工場の労働者だけでなく、教師も教授も非正規職がおり、彼らも権利を求めて戦っていることが分かった。 過ちに立ち向かってこそ世の中が変わり、自ら自分の権利と自尊心を持っていかなければならないということも。 しかし、何年も戦ってみてはじめて、そのようなことを知ることができるというのは、驚くべきことだ。 そして、その過程で希望退職を選択した150人は、お金持ちの企業が不法を犯したり、脅迫をしても認め、頭を下げる労働者として去っていった。



車憲鎬(チャ·ホノ)氏は、”きちんとした労働組合運動をしなければならない”と強調した。 現在、韓国労総と民主労総のように、大工場の正規職労働者が中心になっている現実は問題があるということだ。 すでに組織されている労働者が自分の権利を中心に労組活動を行うことも意味があるが、自分たちより劣悪な労働者の権利のために一緒にしてこそ、真の労働組合だろう”と述べた。 そうしてこそ、多くの人々が労組を選択できるし、人々に労組こそ韓国社会を変えることができる団体だということを示すことができるという話も付け加えた。

“今旭非正規職支会に残った23人の組合員は強い絆を持っています。 “労組活動は、結局は共同体活動です。 家庭の問題や個人の悩みも共に分かち合い、共感しながら生きていきたいと思います” そうしてこそ不合理にも一緒に立ち向かうことができます。 同僚同士で傷を癒し、希望を見つけながら。”



“コロナ19″でさらに深刻な打撃を受けている非正規職の問題を心配する彼の表情は暗かった。 すでに大量解雇が行われた事業場が多い”と話した。 1日、1ヵ月稼がなければ生計を立てられない劣悪な労働者から逆に職を失っている現実をそのままにしておけば、コロナ19ウィルスが完全に消えたとしても、我々のうち誰も安全ではないだろう。



そのため、車憲鎬氏と旭非正規支会が韓国社会に投げかける意味は大きい。 今、社会進出を準備している次の世代は”非正規職労働者”になる可能性がさらに高まっているからだ。



著作権者(c)オーマイニュース(市民記者)

AGC株主総会で宣伝行動

 2020年3月27日東京會舘で開かれたAGC第95回定期株主総会に対して、旭支援共闘会議として宣伝行動を行いました。

 かねてよりの新型コロナ感染拡大。株主総会は中止にはならないのだろうか…と半信半疑でしたが、予定通りの開催でした。

 AGCは例年総会で上映する決算報告の動画をユーチューブで公開するなどして、出席を抑制しました。

https://www.agc.com/ir/event/meeting/2020.html

 決算は結論的に減収減益です。世界恐慌が始まった中で、さらなる減収減益は避けられないでしょう。世界中で非正規職の解雇が始まる可能性が高まっています。そういう中での株主総会です。

 韓国の旭非正規職支会チャ・ホノ支会長に電話であいさつと訴えをしてもらいました。

チャホノ支会長からのメッセージ

 AGC株主総会で日本の労働者、市民の皆さんが宣伝戦をやっていると聞いて驚きました。皆さんと共に闘います。ありがとうございます。

 韓国で旭硝子は不法行為を行っています。韓国の労働部、検察、裁判所も旭硝子の不法行為について認めました。

 私たちが旭硝子を解雇されて6年目を迎えていますが、旭硝子はこれまで行ってきたことを全く変えていません。6年目を迎えて、これからも後退することなく、必ず勝利するまで闘います。

 日本の同志の皆さんと、最後まで力強く闘っていきます。トゥジェン!

 韓国の当該が来日できなくても、日本の同志が彼らの分も闘いたいと思います。

 こんな時だからこそ国際連帯・階級的団結の力が問われているのです。

 日本の労働者民衆が、自らの問題としてAGCと島村社長の責任を追及して闘いましょう。

 闘争!

AGC・島村社長に責任あり!

何とかしろ!違法派遣・不当解雇

 昨年9月、日本経済新聞にAGC(旭硝子)島村琢哉社長の記事が連載されました。島村社長は、“小学生の時に「ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために」という言葉を知って、自分が変わった。通っている教会の礼拝中に考えるのは「世界で働く5万4千人のAGC社員の幸せだ」”と語っています。

労働組合作った韓国の請負労働者を解雇

 労働組合を作るのは労働者の基本的な権利です。ところが、2015年にAGCの韓国子会社AFKの工場で働く請負労働者が、労働条件の改善を求めて労働組合を結成すると、その1ヶ月後、AFKは契約途中のこの会社との請負契約を解除して、会社丸ごと、組合員を工場から追い出したのです。以来5年、苦しい解雇撤回の闘いが続いています。島村社長の「みんな」の中にはこの請負労働者たちは入っていないのでしょうか?

違法派遣で起訴される

 しかもこの請負労働者たちは、偽装請負で働かされました。つまり実際はAFKが業務の指示を出す派遣だったのです。韓国では工場派遣は禁止されています。違法派遣でAFKと当時の社長が刑事告訴されました。

雲隠れした前社長

 ところが刑事告訴されるや、AGCはAFKの社長を入れ替えて、当時の社長は雲隠れしてしまいました。裁判にも出廷していません。

 本社の責任で解決してほしいと、申し入れを繰り返してきましたが、会おうともしません。

 島村社長は社会的責任を果たしてください。

韓国の請負労働者が組合を結成

 最低賃金ギリギリの賃金で、土日も休めない、風邪を引いても休めない、昼食時間は20分、ミスをすると懲罰で赤いチョッキを着せられる。文句を言おうものなら解雇が待っている。「もうかんべんしてくれ、人間らしく扱え!」

 2015年5月、AGC韓国子会社AFKの工場で請負会社GTSの社員として働く労働者138人が労働組合=「旭非正規職支会」結成。

不当解雇!5年を迎える闘い

 組合結成から1ヶ月後、まだ6ヶ月の契約期間があるにも関わらず、AFKはGTSとの請負契約を解除。組合員は、メール1本で全員解雇。

 5年を迎える現在も22人の組合員が、工場前のろう城場を守りながら、正社員として職場に戻せと闘い続けている。

 その闘いは、韓国のみならず、世界中の非正規職を撤廃する闘いでもあり、希望の光。

解雇の責任はAGC本社に

 日本のAGC本社は、この不当解雇について、韓国のAFK(アサヒフアインテクノコリア)は別法人なので全く関係も責任もないと言う。

 しかし、それは通用しない。

 子会社設立の前に「投資協定に関する覚書」を慶尚北道及び亀尾(クミ)市と締結したのにはAGC本社。地域社会の発展に寄与することを約束するのを条件に、慶尚北道・亀尾市はAGCに15年間の地方税減免、34万㎡の土地の50年にわたる無償賃貸契約などを約束した。

 AFKはAGCの重要な生産拠点となっている。

 もちろん連結決算。資本金の67パーセントはAGCが握り、社長は日本人で、本社の人事で派遣される。

 AGCは世界30をこえる国と地域でグローバルな事業展開をしている。さらにグローバル展開を加速するとして2018年に社名を「旭硝子」から「AGC」に変更した。テレビや電車内広告などコマーシャルにも力を入れる。

 韓国でのやり方はAGCが世界中でやること。許してはいけない。

『キムヨンギュンという光—記録と記憶』 -キムミスクオモニのインタビュー

昨年8月に『キムヨンギュンという光-記録と記憶』という本が出版されました。2018年12月に泰安火力発電所で当時24歳の青年キムヨンギュン氏が亡くなって以降、遺族をはじめ、民主労総、市民団体などが闘いを継続しています。この本では、発刊に際してのキムミョンファン民主労総委員長はじめとする民主労総幹部の挨拶、これまでの経緯と闘いの意義など5部構成になっています。その中で、キムヨンギュン氏の母キムミスク氏のインタビューが第4部に掲載されていますので、 紹介させていただきます。

『キムヨンギュンという光—記録と記憶』2019年8月故キムヨンギュン市民対策委白書発刊チームより

“今私はヨンギュンの死一つだけを見ない”

(口述 キムミスク(故キムヨンギュンオモニ) 記録 パクヒジョン)

警察から明け方6時頃に最初に連絡がありました。お父さんの電話機に3回メールが来たが、寝ていたので(内容を)聞くことができませんでした。6時半頃だろうか、電話が来ました。「息子さんが泰安(テアン)にいるのはまちがいないでしょう?」と。お父さんがそうだと言うと、「今事故が起こったのですが、息子さんかどうか確認してもらいたい」と、早く来てくれと言ったんです。起きて顔を洗ったのかどうか覚えていません。そのまま来たと思います。そのまま…カードとカバンだけ持ってあわてて泰安に行ったんです。

この気持ちは何だろう?

 最初は警察署に来てくれとそう言ったんですよ。警察署近くまで行ったが、病院(泰安医療院)に来てくれとまた連絡が来たんです。‘大ごとだ’と思いました。大ごとになっているんだな。子供が気絶したり、話ができない程深刻なケガをしたみたいだ。だから子供が自分の子供なのかどうか確認してほしいと言っているのではないか。まさか死ぬということはないだろう。いや、やっぱりない、そんなことはないだろう。そう思いながら泰安に行きました。

 病院に到着して応急室にキムヨンギュンという人が来たかと尋ねたんです。そういう名前の人は入って来なかったと言うんです。人相、着衣などを話しながら、そういう人は入って来なかったかと尋ねても、入って来なかったと言うんです。最後に行くところは霊安室以外ないじゃないですか。間違いなくこの病院に来たという話を聞いたんだけど、霊安室に…20代中頃で、背が175ぐらいになる男の子がひょっとして入って来なかったかと聞くと、入って来たと言うんです。

 確認しなければならないじゃないですか。自分の子供なのかどうか。霊安室の中に引き出しのようなものがあって、そこから息子を取り出したんです。ビニールのようなものに包まれていました。全身じゃなく、頭だけ見せてくれたんです。顔が石炭の粉で黒くなっていました。口の中にも石炭の粉がいっぱい入っていて、私は最大限外側からよく見ようと思いました。自分の子供のようでした。信じたくなかったが…そのようでした。顔に触って見たら生きている時と同じだった。他のところは冷たくなっている皮膚…

 顔ではなく、他のところを見ようと思いました。ところが触らせないようにするんです。なぜそうするのかと尋ねると、ここに来る前に何も聞いてないのか、とそう言うんです。息子の損傷が激しいので見たらいけないというんです。じゃあ言葉で、言葉でも教えて下さいと言ったんです。そしたら、頭は体と分離していて、背中は裂けていて焼けた状態だと言うんです。私が息子の体を見ようとするので、私を外に追い出したんです。廊下で自分の息子をもっと見なければならないと、どれほど泣き叫んだかわかりません。時間がどれだけ経ったかわかりません。他の人は気絶でもするというんだけど、どんなに泣き叫んでも気絶しないんです。はぁ…

 泣きくたびれて上がって来たんだけど、1階に下請け会社の理事という人と、その横は誰かわかりません。二人が来て立っていたんです。申し訳ないと言いながら、言ったことは、「ヨンギュンは、行ってはいけないところに行き、やってはいけない仕事をした。保健に入って置いたのがあるから、それで解決する」と、そう言うんです。       

最初はそういうものかとも思いました。だけど1分、2分経って、少し疑問を感じたんです。遺族と初めて会ったのに、その横ですぐさまそういう話をできるのか?そうじゃないと思うが…何だろう? この気持ちは何だろう?思いが自然にそうなっていったんです。

信じられない言葉

 その場にヨンギュンの同僚たちがいたんです。同僚たちを別のところにこっそり連れて行って聞いたんです。異常の合図が来た時どうしなければならないのかと、ヨンギュンが仕事するところに待機室があるんです。そこで異常の合図を受けるらしいんです。会社ではそういう時、絶対にそのまま行ってはいけない、仕事も処理してはいけないと教育したとそう言ったんです。ヨンギュンの同僚たちの話は違うんです。無条件に行って処理することになっていると言うんです。原則そうだと。完全に正反対の話なんです。この人たちがわが子ヨンギュンに濡れ衣を着せているんだな、そこでわかったんです。真相を明らかにしなければならない、万が一会社で話を仕組んいるとしたら、この事故が完全に私の息子の過ちになってしまうと思ったんです。

 その場から少し離れたところに民主労総から来た人たちがいました。私の助けになればと来た人たちで、会社側とは違う人たちだということがわかりました。その人たちに会社側の人たちを私の目に見えないようにしてほしいと頼みました。どんな人たちだかわからないのは同じだが、元請けや下請けの人たちよりはまだいいのではないかという思いがありました。

 一旦会社を排除し、こっちを選択したんだけど…労組する人たち、活動する人たち、そういう人たちの話を聞くのは初めてなんです。この人たちが私にとって為になるのか、害になるのかわからないじゃないですか。テレビで毎日闘争する姿だけ映っている人たちで、だから私もただ騒々しい人たち、あまりよくない人たち、そう考えていた中で、私がこの人たちをどうやって信じることができますか。

 ところで、私の叔父が以前コーロンにいたんです。労働組合の副委員長をやったことがあって、私が電話して聞いて見たんです。なんか、公共運輸云々とかって名札にあるんだけど、この人たちは信じていい人たちなのかと、そしたら大丈夫だと、信じてまかせればいいと言うんです。だけど私は会ったこともないし、知り合いでもないから疑念を拭い去ることはできなかったんです。一日二日経ってからか、叔父が泰安に来たんです。するとその人たちは全部叔父が知っている人たちだったんです。だから少し安心しました。

 市民対策委副委員長が私にこう言ったんです。私たちは遺族を中心にし、遺族の話を最優先に考えると、その言葉が大きな力になりました。市民対策委の会議に遺族が参加してもいいと言い、朝晩参加しました。私は安置所にいるから、そこでテーブルをおいて会議をしたんです。最初はなんて言っているのか全く分かりませんでした。わからない中でも毎日会議に参加しました。5日か10日経って耳に入って来ました。会議で少しおかしく思うことや、疑問をもったことを全部聞きました。対策委が透明性持って会議をやるのを何日間か見て信頼感が沸いて来ました。

 それでもこの人たちが、自分たちの利益のために私を援助するのではないかと結構考えました。私が考える道とこの人たちが考える道と違う可能性もあるんじゃないか、遺族が望むのは「真相究明、責任者処罰」だけど、あの人たちが望むのは「非正規職の正規職化」ということ、ヨンギュンが掲げたプラカードのように。でもそれも私の気持ちと一致しないということではないじゃないですか。同じじゃないですか。順序が違うだけ。そしてどうせ自分一人で闘うことができるわけでもないし、だから一緒にやることにしたんです。

 その時対策委の人たちが私に重要なことを要求したんです。私の気持ちの中に少しでも心配事などあれば、全部話してほしいと言ったんです。そういうことは何かあるか? なぜそういうことを自分に要求するのか?考えてみました。対策委と私たち遺族間の信頼にひびが入り始めたら、この先うまくやっていくのが難しくなるという思いがはっきり浮かんだんです。あぁ、だからそういうことを言うんだな、その言葉通り、とても小さなことでも共有しました。だから対策委側と私たちと分離された感じではなく、同じ仲間として闘うことができたと思います。そういう部分は本当に対策委の側でよくやってくれたと思います。私はこういう人たちに会ったのは幸運だと思います。

国を信じて生きて来たのに…

 ヨンギュンが働いていたところが、公共機関じゃないですか。公共機関だから信頼して息子を送り出しました。事故3日目現場に行ったんですが、国家機密だと、その中の様子が外部に出たらいけないという機関だと言うんです。私は遺族だから当然自分の息子がどこでどうやって死んだのか、確認したくて行ったんです。

 アパート15階というぐらいの高さにもなる大きな建物で息子が仕事をしていました。階ごとにはしごで上がっていくのですが、はしごが横になっているのではなく、直角に立ててあるんです。それをつかんで上り下りしなければならないんです。息子がどんな訓練をしてきているわけでもなく…中に入ったんですが、薄暗いんです。私が行った時は機械が止まっていたんですが、機械を稼働している時は粉塵がものすごくたくさん舞うんです。ただ立っている時もそんなに明るくないのに、粉塵が舞えばどれほど透明度が落ちるかということです。行く場所ごとに石炭の粉が床一面に散らばっているんです。私たちが普通埃だと考えるそういう水準ではなく、雪のように積もっているんです。

 石炭を運ぶベルトコンベアーの威力がものすごく強いんです。私はヨンギュンが点検だけすると思っていました。落ちた石炭をまたすくい上げる仕事をしているとは思っていませんでした。そして表に出ているプーリー(滑車)に石炭の粉が挟まったりくっ付いたりすると、それを取り除かなければならないらしいんです。息子が仕事をした9、10号機は鉄板で覆われています。ベルトコンベアーに落ちた石炭をすくい上げようとすると、その中に体を半分にかがめて入って行かなければならないんです。その狭い場所で落ちた石炭をすくい上げようとする際、下手をすると機械に接近して入るしかないじゃないですか。そういう場所を継続して見回りながら動かなければならないんです。階ごとに上がったんですが、上がるごとに鉄門が両側に広がっていました。

 私の息子が夜一人でそういう恐ろしいところを…70年代などに見た炭鉱のようなそういうところで夜一人でいたということだけでも本当に大変だったと思うけど、そういう劣悪な仕事までしていたなんて…ヨンギュンが仕事をしていたところは、最も最新のものとして作られたところです。最新で、外から見るとものすごくきれいに見えるけど、その中で仕事する人はより劣悪で、危険な仕事をするように作られているんです。どうしてこの国の公共機関で仕事をこのようにできるのか…それがどうしても納得できないんです。

 最後に最上階に上がりました。ここが事故が起こったところです。掃除がされていて、事故が起こったのかどうか表示が一つもありませんでした。とても驚きました。私は単にそこに上がったわけではないじゃないですか。息子がなぜ死んだのか、どうやって死んだのか、確認したくて行ったんですが、何の痕跡もありませんでした。会社は蓋をしようとしているんだ、完全にそう思ったので、本当に…腹が立って仕方ありません。その上ヨンギュンが死んでから遺体の収容もできなかったのに、その横で機械を稼働したという話を聞きました。ヨンギュンがごみなのか…最低限、けだものが死んでも痛い思いをするのに、うちの息子は何か…

 記者たちを連れて来て、その中をそのまま見せたい気持ちでいっぱいでした。こういう現場がこの国にあるということをすべて明らかにしたい気持ちでした。そこを出てからヨンギュンの同僚たちに会いました。ヨンギュンより大きくても一つか二つ、そういう子供たちがそこで仕事をしていたんです。だからその子供たちに会ってこう言いました。あなたたちはここから出なさい。あなたたちの両親が知ったらここで働かせないようにするでしょう。ここから出てあなたたちも暮らしなさい。

 ヨンギュンの同僚たちも私の息子のように死ぬのではないかと恐ろしいんです。今ちょうど社会生活を始めたばかりの人たちじゃないですか。その大切な人生がここで終わるのではないか、しきりにそう思ったんです。そう思う私が本当に異常に思いました。その状況の中で別の人が見えるというのが…普通自分の息子が死ねば、その悲しみに暮れ、何も見えないじゃないですか。なぜ自分にはそう見えるのか。私が精神的に問題があるのか。だけど見えるんです。でも、何ででしょう。感じるんです。その人たちもそういうことに直面すれば、その両親たちも自分と同じ悲しみを味わうというのが。

私だけの悲しみではない

 私は今回のことを経験し、2か月経ってこの国が本当にどんなところなのかわかりました。国が構造的に、ものすごい多くの人たちをヨンギュンのように死なせているんだな、そういう苦痛を経験しているのは私だけではないんだな。本当に、本当に驚きました。1年に2400人が安全が守られず死んでいるのに、ものすごい大惨事にもかかわらず、それがただもみ消されて流されているんだな。国民のために国があるのではなく、政治や財界のために国があるんだな。

 私にとってこの国はとても暗く、血なまぐさい匂いがします。怒りで我慢できません。悔しい気持ちがとても強く、黙っていられないんです。私がどんな手段を使っても状況をひっくり返さなければ。そういう人たちだけ生きられる国ではない、その人たちは処罰され、国民たちが生きることのできる国を作りたいんです。私に何ができるのかよくわかりません。だけどヨンギュンのことを経験して、自分が知らなかった自分自身を知ったんです。ある人は大事を経験したら、精神が混乱し、苦しみに打ちひしがれしきりにもがくけど、私はむしろ精神がよりはっきりしています。どうすればこれをを解決することができるか、考えているんです。

 発言の機会がある時、最初は会社を罵りました。その次は政府を罵り、その次には国と財界は同じ穴のムジナだということを知り、さらに罵ったんです。ヨンギュンの同僚たちが非正規職じゃないですか。だから次に発言する機会がある時は、非正規職の人たちに向って力を合わせてほしいと要求しました。またその家族たちが一緒に一つになることを要求しました。こう要求するのは、個人と闘うのではなく、国と闘うことだからなんです。これは絶対そう簡単に解決することではないな。ものすごい困難な闘いになるな。毎日外に出るたびに、どうやってこの状況を大きく育てて行くのか考えました。

 一日一日言うべきことを文章にしたんです。毎日毎日2、3時間かろうじて寝ましたが、それでも横になってもパット起きて、泣いて、怒って、そうしていたんです。悔しさを文章で晴らさなければという思いがしたんです。人に対して伝えたい気持ちが大きかったんです。人の横で話す時は、私が感じる感情そのままを表現しました。たった1度でも嘘を言えば人はみんな分かるだろうと考えました。私は普通のおばさんだったじゃないですか。知識人たちのように、言葉を筋道立てて言うことができないことを自分でもわかっているんです。ただ自分の気持ちだけ伝えることができればと考えました。人々はそれでも私の気持ちが見えたのか、分かってくれたみたいです。だから継続して勇気を出して自分の仕事をやって行きます。

 対策委副委員長がこう言ったんです。オモニが仕事をしきりに大きくして、付いて行くのが大変だったと、その時は時間だけ過ぎて行き、解決方法はなく、何ができるという声も耳に入って来ないし…いらだちがあったんです。対策委の人たちが自分の限界を超えるほど本当に一生懸命やってくれました。私が辛い時、その人たちも同様に辛かったでしょう。寝ることも満足にできず、やることはたくさんあって、ストレスが多かっただろうに、悪いと思いながら迷惑かけました。だけどこの仕事を必ず解決しなければならないという気持ちが、その時自分にとって先立ちました。

 当然私だけでできることだとは思いませんでした。だけど何もやらずにただいたら自分が死ぬかもしれないと思ったんです。ヨンギュンのお父さんはしゃがみ込んで、一人で苦しみを鎮めるスタイルだけど、私は違うんです。この悔しさを自分一人で鎮めるのは本当に大変で、だったら私は本当に錯乱し死にます。それをわかっているから外に出て闘わなければならないんです。今私はヨンギュン一人の死とは見ません。ヨンギュンの死が大きな爆弾だったけど、そのせいで私にとってこの国全体の問題がとても大きく実感できたじゃないですか。

 今はまだ子供を失わないでいる家庭が、私のように苦しみをを味わうことのないように願う気持ちが大きいんです。知らなければ知らなかったし、社会がこうだったということ、今は肌身でわかったので、顔を背けることはできないんです。闘って負けたとしても。

 私がヨンギュンの写真を見ながらこう言ったんです。こいつめ、あんたは何でこんな目にあって、あんたがどうやって死んだのか、私がどれだけ悔しいか、人に毎日そのことを話しながら生きるようにしたのか、と。だけど、息子がそれを望んだわけではないじゃないですか。単に今状況がそうなっただけ。子供がそうなれば別の親は思う存分泣いてくれて、痛みを感じてくれるでしょう。そういうことをしてあげることができないのが…本当に心が痛むんです。ところで泣いたり苦しんだりするだけでは、私の子供に濡れ衣を着せられることになるし、国もただそのままで終わるじゃないですか。だったらヨンギュンが本当に望んだり、私が望むことは達成されないじゃないですか。これは子供が私の立場になったり、私が子供の立場になったりしても正しくないと思うんです。私は10回、20回死んでも生き返ってこうやって闘うつもりです。

人生のすべてを失い、どうやって生きなければならないか

 今回の事がある前まで私は前だけ見て生きて来たんです。とても生活が大変で。ヨンギュンのお父さんは体の具合が悪くて病院にいて、ヨンギュンを育てなければならないし、学校にも通わせなければならないし、カネを稼ぎ生活するだけで精いっぱいでした。私は高校を出てから社会生活を続けて来ました。結婚して夫の両親と少しの間暮らしたことがあるんですが、その時とヨンギュンが生まれた少しの間を除けば休んだことがないんです。今回のことがある前まで通った会社では2交代勤務をしていたんですが、休んだのはひと月にたった1日だけでした。私は仕事をいい加減にするタイプではないんです。会社に迷惑をかけないように一生懸命やりました。私が利潤を多く上げれば会社に長く通うことができるからです。私も一家庭の家長だったじゃないですか。首を切られたらいけなかったんです。

 大変でした。だけど子供がいたからよかったんです。おなかの中にいる時からヨンギュンが大きくなる姿を期待するその気持ちが本当に…よかったんです。子供がよく育ってくれさえすれば、それ以上望むことはなかったでしょう。ヨンギュンが小さい時、亀尾で暮らさず祖母の家と近い田舎の町内で過ごしたんです。臨皐(りんこう)書院の横にある臨皐小学校というところに通いました。息子は小さい頃からたくさん病気をしたんです。勉強に神経使わず気持ちを楽に健康に暮らすことだけ願いました。

 ある日ヨンギュンが、学校から大きな袋にぎっしり一杯銀杏を拾って持って来たんです。重くて匂いがするのに。ふだん私が体にいいという銀杏を拾う姿を見ていたようなんです。本当にうれしい気持ちになって、ゴム手袋をはめてきれいに洗って干してよく食べたことを思い出します。本当に子どもがかわいいことをしてくれたんです。嫁ぎ先の家に行くと、いとこたちはみんなヨンギュンより小さいんです。ヨンギュンが祝祭日の時、祖母の家に行く前に必ずスーパーに行くんです。行けばお菓子をいっぱい買うんです。「なぜ?これ全部あなたが食べるの?」と言ったら「いや、いとこたちに分けてあげるんだ。一緒に食べようと思って買うんだ」と言って、とてもうれしそうな姿を思い出します。

 だけど子供が学校に行く前に、私が少し心配したんです。このようにおとなしいこで、学校に行って友達に殴られて来たらどうしよう。だから子供に話したんです。「お前学校に行って誰かけんかを仕掛けて来たらどうすんの?」と言ったら、「お母さん、自分がただ言葉でちゃんと説得するよ」と言うんです。「じゃあお前一度殴られたらどうするの?」。それでも口で話して見ると言うんです。やれやれ私が教育をそうやってして来たのか。(笑い)どうしようか、毎日殴られて来たら? こう思いました。小さい頃からそういう気持ちだったのでヨンギュンは大きくても心がきれいで思慮深かったんです。

 大学は大邱にある永進専門大学へ行ったんです。亀尾からそこまで通学しました。ヨンギュンのお父さんが寄宿舎に行かせないと言ったんですよ。お父さんはヨンギュンが高校までは外泊もさせませんでした。よくない環境に置かれると思ってかなり心配したんです。川のほとりに放り出したのように、いつも何か間違いがないか心配したんです。万が一ヨンギュンがどこかに行くとするでしょう。そしたらお父さんは地図を探してどこへ行ったら何に乗って、またどこに行ったら何に乗り換えて、こういうことまで全部教えるんです。ヨンギュンは「お父さん、自分はこれはできる、どうかそこまでしないで」。そういう時もあったけど、悪く受け取っているわけではなかったと思います。お母さんとお父さんが自分のそばにいたい気持ちをよくわかっていたからです。

 今度の事が起こった最初の段階でセウォル号の遺族の方たちが来て私をよく知っていただいたんです。その人たちに一番初めに尋ねたかったことは、子供がいなくなってどうやって暮らして来たのか、だったんです。セウォル号遺族ヨンソギのお母さんは、子供がひとりしかいなかったじゃないですか。その子供を失ってその苦しみをどうやって耐えているのか、それが一番聞きたかったんです。私は本当に…生きていく自信がなかったんです。セウォル号事件が起こった時、私はその一年を暗く沈んだ気持で過ごしました。いくら光がさし明るい日でも自分の気持ちは本当に暗かったんです。あのお父さん、お母さんたちはどうやって生きていくのか。本当に大変だな。だけど生きる人は生きる、どうやっても生きるだろう…私は一つ橋を境に、他人事だと考えて生きて来たんです。ああいうことが起こることはないだろうと。ところが…自分がそういう目にあったんです。ある瞬間あの人たちが自分になったんです。

 社会がこうやって安全でないということを知らずに生きて、本当に…この…暗澹たる思い。(涙)我慢できない怒り、私の希望…私の人生…をすべて失ったじゃないですか。私たちはヨンギュンが小学校を卒業するまで、子供を自分たちの間に寝かしました。ヨンギュンの顔をお互いに見ていたんです。それほど大事な子供がそうやってひどい環境で働いていたこと、凄惨に引き裂かれて死んだじゃないですか。どんな親が私のように険しく、息子を…(すすり泣く)どうやって耐えればいいのかわからないし…今何を希望にして生きればいいのか…いくら考えてもないんです。思う存分に生きたくもなく、泣きながら行きたくもありません。私たちは家庭が壊れてしまったんです。

 遺影の中の子供を見ながらこう言ったんです。ヨンギュン…私はお前だ。お前は私で、お前がそうなってからお母さんは死んだも同然だ。お前は死んだけど、お母さんの中にいるから、お前がしたいことを私が全部やる。それが私の人生の目標になったんです。そういうことを握りしめて生きたくて。私は大して恐れることもありません。今持っているものは体しかないじゃないですか。闘って負けても私が失うものはこの体以外何がありますか?私はそう思っているんです。

短くて長かった時間

 最初の段階で対策委に(遺族の権限に代えるように)委任状を書いたんです。その時は元請け、下請けの人たちと対策委とで言い争いがあったんです。会社側は対策委に対して、なぜあんたたちだけ遺族と接触するのかと言うんです。自分たちも遺族に会って話をすると、だから市民対策委を後押しするために委任状を書いたんです。それがあれば、市民対策委があの人たちに振り回されず力を発揮して仕事することができると思ったんです。その委任状を3日後に書いたという話をあとで聞いてびっくりしました。私はその時間がものすごく長かったと思っていたんです。10日くらいは過ぎてから書いた感じでした。

 委任する時は私一人で決めました。気持ちが急ぎ、別の家族たちと相談しませんでした。そういう点は少し申し訳ない気持ちがあります。そういう重要なことなのに、自分一人で決めたというのが。いくらいい結果が出たとしても、相談はしなければならなかったんだけど…いつも気になっています。ヨンギュンのお父さんは家が亀尾じゃないですか。故郷が永川(ヨンチョン)なんです。だから昔から与党の側(現自由韓国党)の応援を一生懸命したし、今度の事を経験してからすごく混乱したんです。1か月くらい過ぎた時、子供を冷たいところに入れて置いて、どれほど待たなければならないのかと言ったので、私がこう言いました。子供を焼いて埋めるのと、霊安室の冷たいところに入れて置くのと何が違うんだと、どっちも戻って来ることはできない、私たちにとっては、ヨンギュンの濡れ衣を晴らすこと、悔しさを晴らすこと、それが大事なんじゃないのと説得したんです。ヨンギュンお父さんが何とか私の説得に共感してここまで来たと思います。

 闘っている間、家族たちが大きな力になりました。事故が起こった後、最初の日だったか、次の日だったか、西部発電キムビョンスク社長が来ました。靴も脱がないで入って来ていたんだけど、私はその人が西部発電社長なのか知りませんでした。お姉さんが最初に気づいて、「あんたどの面下げてここに来たんだ!」と怒鳴りつけて追い返したんです。次は私の妹が遮って止めてくれました。特に妹は私のそばでいつもスケジュール管理をしてくれて、私に代わってやってくれたのでものすごく頼りになったんです。ホントにすごく…感謝しています。

 産安法(産業安全保健法)改正ということで国会に行ったじゃないですか。3日間行きました。対策委を通して産安法というものがあることを初めて聞きました。事故を起こした元請けを処罰する法がある。それが国会を通過すれば元請けを処罰することが可能な条件ができる。遺族としては当然改正しなければならないと考えるじゃないですか。強力に要求しました。その過程は簡単ではありませんでした。国会議論の最初の日は、まあ何とか少しは通過する感じがしたんですが、次の日から状況が本当に状況がひっくり返ったり、是正されたり、行ったり来たりしました。なぜこの法が遮られ、通過されないのか理解できませんでした。時には大声を出し、時には泣訴しながらやりました。

 ところで通過した改正案には、ヨンギュンの同僚たちが入っていなかったじゃないですか(注2:発電所の業務は改正された産安法が規定する請負禁止業務に含まれなかった)。発電会社でケガをしたり、死んで行ったりするのもすごく深刻なのに、その法に含まれないので処罰することができないじゃないですか。ヨンギュン法と言っているのに、一体何をもってヨンギュン法だというのかわかりません。(事業主処罰規定も)上限に言及したが、下限については昔と同じで(注3:改正された産安法では安全措置を正しく講じない事業場で労働者が死亡した場合、「7年以下の懲役」から「10年以下の懲役」に事業主処罰を強化した。最初提示された改正案では上限刑を高めることと共に下限刑(1年以上)が明示されていた。下限刑は、産安法に違反した事業主が有期懲役や高額罰金を科されることになるのは、ほとんど困難だという批判から導入されたものだった)。誰が後退するような法案を作り、通過させたのか…政治や企業の息がかかったのではないかという思いがとてもします。民営化になり、人がこうやって死んでいくのを当然視する政府や企業の態度はいまだに直っていないし、本当にどうしようもないという思いがしました。

 (12月28日に)ムンジェイン大統領が私に面談要請をして来たんですが、その面談は私がしないと拒否しました。ただ慰労の言葉だけの面談は私が望むものではないし、その必要もないからです。人は大統領面談が特恵だの、ヨンギュンの死体商売だの、そういう話をする時のインターネットなどの書き込みを見たけど、私は動揺しませんでした。私が望むのは、人に被害が及ぶのではなく、多くの人たちを生きさせることじゃないですか。傷ついたり、神経は使いませんでした。私は…ヨンギュンを守ることができなかった親じゃないですか。それが本当に…子供に申し訳ない気持ちなので、私にとってはそれより大きな傷はないんです。

 新年になって慌ただしい気持ちになりました。新年や旧正月をはさんで、もう少し先になれば選挙もあるから、私たちが舌戦の中で葬儀を行うことができるよう(合意案に応じてくれるように)要求したが、だめだと思いました。人が一緒に闘ってくれて各地の百余りを超える団体が心をひとつにして、その後には合意しっかり引き出したと思います。

霊でも共に生きたいと思います

 合意案を引き出した次には、当然葬儀を行うことを考えました。ところが葬儀を行うんですが…すごく盛大にやったじゃないですか。私はそういう葬儀を生まれて初めて目にし、経験しました。こんなことはテレビで大統領の葬儀を行う時に見たことがあるだけでした。呆気にとられる思いでした。

 今回やっとヨンギュンの葬儀を行うということじゃないですか。私はいまだに子供の顔もちゃんと見ることができなかったが、ヨンギュンを泰安に送り出すまでは自分が子供を連れて暮らして来たじゃないですか。離れてからちょうど3か月でした。その間にたった1度家に来て、その時少し顔を見て、死んでからまた見たわけじゃないですか。霊安室では長くても何分間しか見ることができなかったんです。その後は一度も見ることができなくて、すでに葬儀を行い離れ離れになっているのに実感がないんです。何の夢を見ているのか、これが本当に現実なのか…ただ…よくわからないんです。ヨンギュンがすぐにでも来るような気がして…だったら私がこの間行き来しながら騒いでいたことは何なのか?子供が死んだと騒いでいたのに。

 子供が逝ったと言っていたのに、今でもどこかにいるような気がするんです。でも電話をしても受け取らず、カカオトークをしても反応がないんです。私のケータイ電話の中にヨンギュンの遺影があり、墓の写真もあります。子供が骨になり、お墓に入ったところまで自分の目で全部見たけど、私たちの子供が埋められたんだろうか?名前はあるんだけど、これが‘死んだということ’何だろうか…

 親たちはみんなそう感じると思うんです。涙も出ませんでした。抜け殻になった感じで生活しています。ただ呆気なく空しく、すべての事が…自分が…いくらよく食べて、よく暮らしても子供がいないのに、何がいいのか…いいことはありません。(沈黙)ヨンギュンが霊でも家に来て一緒に暮らせればと思うんです、霊でも。先日引っ越しをして、ヨンギュンの部屋をつくったんだけど、ヨンギュンがホントに来るだろうか?ヨンギュンにここがお前の部屋だと話したいんだけど、何の目印もないじゃないですか。(すすり泣く)自分のものがあるから当然自分の部屋だとお母さんがつくってくれたんだな、そうやって考えるんじゃないか、そう考えているんです。

 うちのお父さんが自分は一番苦しいのがそれだと言うんです。子供を一生見ることができないこと。ただ一度でも会うことができればいくら長い歳月が流れても待つことができるんだけど、それはできないじゃないですか。だから早く死んで子供のそばに行き、一緒にいたいと、それが幸せだと言うんです。私がこう言うんです。本当に霊がいて会うことができると確信できれば行けばいい、でもそれはいないじゃない。万が一ヨンギュンと会えずにただ死ぬだけだったら、もっとくやしいんじゃないか。そうやってお父さんを説得しているんです。

私たちが光になれば

 息子を失った親が目を開けて、ご飯を食べて暮らしている自体が毎日罪のような気がします。しかし死ななければ生きるということじゃないですか。生きていれば意味のある人生を送らなければならないでしょう。この間私が今回の事を経験して、人にたくさん助けられたじゃないですか。その人たちに私がいちいち挨拶ができません。だからこの人たちの家庭を守り、安全な社会をつくることでその一助となればと思うんです。

 ハンファ工場爆発事故の遺族たちに会いに行きました。事故が起こってから11日目でした。記者たちに頼ろうとしても取材に来ようとはしないし、本当に暗く落ち込んだそうです。力がしきりに抜けて‘このまま終わるんだろうか’と考えていたんだけど、私たちが行った時でした。記者たちと一緒に。その人たちは私に「お母さんは本当に立派だ。私たちはそうなふうにできないと思う」と言って、私がこう言ったんです。私も3か月前まではごく普通のおばさんだったと、こうやってできるのは私が立派なんじゃなく、母親だからできるんだと、母親だから息子の悔しい思いを晴らしてあげなければならないし、また私ができることはこれしかないのでやっているんだと、誰でもできることなので、勇気を失わずやって下さいと。

 その次からその人たちが記者会見もしたそうなんです。直接行って見てないけどインターネットに出るニュースを見ていたんです。声をあげているな、その時行ってよかった、そう思いました。今後も悔しい死に方をして、どうすればいいのかわからない人たちに会って、力を貸してあげなければと。自分もできることはあるんだなと。

 ヨンギュンの事故が起こってある団体から話を聞いたんですが、そこも非正規職という問題で論議が始まったばかりだった状態で、ヨンギュンの問題が発生してすぐ正規職に転換されたと言うんです。

 私たちが闘った余波が社会のあちこちに及んでいることに気づきました。私たちのやっていることがいい結果をもたらしているんだな。私がヨンギュンの死を無駄にしてしまえば、また何事もなかったように過ぎていく可能性があったじゃないですか。でもこうしてみんなが力を合わせて闘い、社会が少しでもよくなり、ある人にとっては私たちが光になっているんだな、もっと一生懸命やらなければと感じるんです。

 今、別の産業災害家族たちと1か月に1回ずつ会っています。遺族たちとは、ただお互いに会って話すこと自体が慰労になります。どんな話をしても大きな傷にはならず、別な見方をすれば自分の家族たちよりもむしろ理解がより深いこともあります。チェジュ島のイミンホのお父さん(サムスン半導体産業災害遺族)、ファンサンギお父さん、ヘギョンイとヘギョンイのお母さん…私にとって多くの慰めになりました。今までよく闘うことができるようにしてくれた人たちです。

 また別の被害者が出て、その人たちの過ちではないということを明らかにしようとする時、私たちも力になれるんです。安全ではないこの社会のひとつひとつがすべて暴かれ、人々の認識が変わることを望んでいます。安全についての話がうまずたゆまず継続して語られるようにして、今人権団体とかそういう人たちも粘り強く活動できるようにしたいし、誰か代わりにやってくれるわけではないこともわかっているので、私が率先してやろうと思っているんです。子供を失った遺族たちは死ぬまでこのハン(恨)が解けないということです。誰よりも切迫し、切実です。

 今は別に部屋をとって暮らしているが、泰安にいた時期ソウルに初めて来た時は、‘クルチャム(非正規職労働者の保養所)’に泊まりました。1月22日に来たんですね。クルチャムには各界各層のいろんな人たちがすごいたくさん来ます。高空籠城だとか、コルトコルテック、そういう人たちの闘いを見ながら、この人たちが死ぬか生きるかで闘っていることを強く感じます。私はこのようなことがあったことを知らずに暮らして来たんです。クルチャムではそのような人たちにご飯や寝場所を提供しているじゃないですか。社会にこのようなところがあるのはすごくいいことです。初めて知りました。このような所があるということを。

 私がはじめて知ったことは一つや二つではありません。私が生きているこの世の中が明から暗へ入りこんだ感じだったんです。その暗闇の中でも明るさを取り戻すために闘っているということ、暗闇の中に明るいところが存在するということ、ああ、希望があるんだな、そういうのを見たんです。闘えばいいんだ、労組があれば、自分たちの権利を守ることができるということをここで学びました。

 クルチャムに来る時、初めから保護される感じを受けました。この人たちは誰かを苦しめることを絶対に許さない人たちじゃないですか。外では誰かが大変な目に合うとか、誰かが苛めるなどと考え、毎日防御的な姿勢なんですが、ここはそういうのはないじゃないですか。痛みも共有し暖かく包んでくれて、手助けする人たちを見ると、本当に次元が違うんです。私が何を言っているのか理解できますか? 共に生きることによって力になるので、私は闘う人たちのそばにいると力が出ます。

http://m.pressian.com/m/m_article/?no=262176&ref=google#08gq (『プレシアン』2019.10.24 上)

http://www.pressian.com/news/article?no=262190 (2019.10.26 同 下)

[同行取材]’20年来の友人パクムンジンのそばへ’痛い体にも歩くキム・ジンスク指導委員のクリスマス

ガン闘病中のキム・ジンスク指導委員、嶺南(ヨンナム)大学医療院の向かって180km徒歩行進

この23日、昨年から、がん闘病中のキム・ジンスク(59)民主労総釜山本部指導委員が釜山から大邱まで100km以上の距離を歩くという消息がツイッターを通じて伝えられた。 彼は’、労組破壊の真相究明と元職復職’を向けて170日以上、大邱(テグ)嶺南(ヨンナム)大学医療院の屋上から高空籠城中の同志パクムンジン(59)保健医療労組の執行委員に会うために道を乗り出すと明らかにした。
朴指導委員は2006年嶺南(ヨンナム)大学医療院州5日制の実施などを要求し、三日間ストを行った翌年解雇された。 一緒に解雇されたこれらのうち7人が、裁判所判決によって復職されたが、朴指導委員を含めた3人は救われなかった。 その間1000人に迫っていた嶺南(ヨンナム)大学医療院支部組合員は70人に急減した。 これらは、労組の原状回復、解雇者復職に向けて13年間戦っている。
金指導委員が歩くというニュースが流れると、人々が集まった。 金指導委員を大切にする労働者、市民、朴指導委員の闘争勝利と高空籠城終了を祈る人々が一緒に歩くことにしたのだ。 道クリスマス1日彼らと同行することにした。 徒歩行進参加者たちは25日正午から四時間半の間、17km以上の距離を歩いた。

日差しが降り注ぐ、京釜(キョンブ)線、三浪津駅の前に四十人余りの彼らが群がって集まった。 五歳の子供から定年退職した60代まで多様な年齢層の人たちだった。 簡単な準備運動をして記念写真を撮った彼らは、「嶺南(ヨンナム)院解雇者原職復職」「嶺南大医療院労組脱退源泉無効」という文字が書かれた蛍光黄色のベストを着たまま、歩き始めた。

行列の一番前には金ジンスク指導委員とシム진ジンホ金属労組韓進重工業支会長がいた。 後に従う人たちは、それぞれ気楽な速度で歩きながら話を交わした。 行列にはソウル、釜山(プサン)から来た労働者たちと大邱(テグ)から来た市民たちが入り混じっていた。 休日に休みたい気持ちに勝って出た彼らは、「キム指導委員が歩くのに気になって出た」 「パク指導委員の高空座り込みを終わらせるよう力添えをしたかった」と口をそろえた。

大邱(テグ)で市民団体活動をしているというチャン명ミョンスク氏は、「友達と一緒に来た。 「朴指導委員とは知り合いの仲だ。 高所ろう城がもう178日目になるんだけど、してくれるのがなくて歩くことでも一緒にしようと出た”と話した。 カトリック信者という彼は、「今日イエスさまが生きていたら、どうされただろうかと思った。 クリスマスにこの地に生きているイエスである労働者たちと一緒に過ごすのがよさそうだった」と明らかにした。

釜山本部のイ 조직ミョンウィ組織局長は、「パク指導委員は真夏に入ったが、真冬になった。 数日後には日が変わる”とし「政治がすべてを解決できるわけではないが、その気になれば解決するために出ることもあるのではないか。 労働者の声に政府が耳を傾けてほしい」と述べた。

朝日グラスのチャ헌ホンホ非正規職支会支会長は、「朝、目が覚めたら来ないといけないと思って、そのまま駆けつけた」とし、「徒歩行進で連帯できて幸せだ。 韓国の労組も多くの連帯を受けている。 その連帯をお返しする心」と話した。 そして、「金指導委員は本当にすばらしい。 有名な方だが、出世の道を探さず、労働者のそばにいらっしゃる。 彼女について歩くという意味もあるようだ」と感想を述べた。

韓進重工業支会のチャ해도ヘド組合員は、「キム指導委員が歩くと聞いてきた。 「数十年一緒にやってきた。 この徒歩行進も終わる日まで一緒にする」とし、「金指導委員が闘病中にこの程度でも気力をつけて人にも会って活動するとは幸いだ。 今回を機に、とんとん拍子に出て活動もすることを祈っている」と語った。

徒歩行進の参加者たちはゆっくり歩いて三浪津邑の松芝市場を通り、弥田川沿いを歩いた。 一時間に一度は足を止めてくたびれた足を休んだ。 準備してきた水を飲んでゆで卵、餅と果物を分けた。 疲れたりするが、顔からは笑みが絶えなかった。

同日会った金指導委員は少し青白かったが、強健な姿だった。 彼は徒歩行進の間,疲れずに人々の間を歩きながら疲れずに歩き回った. 知人たちと喋り、笑ったりもした。 休む時は多くの人と一緒に写真も撮り、自分が作った 만든パク문ムンジン頑張れ’扇子を手に持って撮影を頼んだ。 全快したわけではなさそうに見えたが、我らの心の中の ‘塩の花木’は相変わらずの姿であった。

近況を尋ねると、彼は「痛かった」と答えた。 抗がん治療後、体力が落ち、髪の毛も抜け、最近は黄疸に関節炎まで患ったという。 それなのに、なぜ釜山から大邱まで歩くことにしたのかと尋ねると、「パク문ムンジンをよく知っているので、じっとしていられなかった」と答えた。

闘争する女性労働者として、友達として二人は20年余りの歳月を一緒に暮らしてきた。

金氏によると、2人は1996年、釜山(プサン)病院労組闘争の現場で出会って知るようになり、同年輩と親しくなったという。 1997年~1998年には一緒に45日間、インド、ネパール旅行を通いながらとても戦ったが、依然として友達とした。 キム指導委員は笑い話を交え、「友達がいないのが残念だった。 現場を歩き回るとまた会うことになり、あれほど戦ったのを忘れて、再びサンティアゴ巡礼の道でも行こうと言った」と語った。

二人みんな解雇の痛み、高所ろう城の痛みを知っている。

キム指導委員は、「私は解雇者なので、解雇者の気持ちは誰よりもよく知っている。 私は嶺南(ヨンナム)大学医療院民主労組の過去を知る人だ。 1千人を超える組合員がい、闘争の盛り上がりは大変なものだったが、今は、組合員が100人にもならないように減少した。 13年間、それをすべて見守ったパクムンジンは、果たしてどんな気持ちイオッゲッナ。 私も2011年以降、韓進(ハンジン)重工業に複数労組の作られていてそんな過程たちを体験した。 以心伝心で始めたと思えばいい」と語った。

この2011年金氏が韓進重工業整理解雇を防ぐため、影島造船所85号グレーンに上がって309日、高所ろう城する間、朴指導委員は、数回の現場を訪れたという。 朴指導委員は来たという話もなく、クレーンの下で黙々と席を守り、金指導委員は写真で友人の姿を確認してきたことを知るほどだったという。 本当に「COOL」だが、「粘り強い」間柄だ。

キム指導委員に今回の徒歩行進で、「友人に心の借りを返すのか」と尋ねると、「そういうことになった」と答えた。 彼は、朴指導委員の高所ろう城が100日を超えた二ヵ月前から、争いが長くなるという考えに徒歩行進の準備をしてきたという。 歩く区間を少しずつ増やして練習し、足の筋肉をつけるために運動もした」と話した。 出発数日前には「もう歩けるだろう」と思い、そのため旅に出たという。

「パク指導委員を応援する多くの方法のうち、なぜ歩く仕事を選んだのか」と尋ねると、キム指導委員は「双竜車の同志を見てそうしている」と答えた。

この2011年7月、金属労組双龍(サンヨン)自動車支部の組合員は韓進重工業整理解雇事態の解決を促し、京畿道平沢で出発して釜山(プサン)まで計400Kmに達する徒歩行進をした。 韓進重工業より先に整理解雇の苦痛を経験した彼らが、同病相憐れむ心で道に出たのだ。 当時、双龍車の労働者たちが大邱(テグ)を通って釜山に向かった時、朴指導委員も参加したという。

キム指導委員は当時、そのことが「一番感動した」とし、クレーンの上でツイッターを通じ、水ぶくれができた足の写真、雨に濡れながら歩く写真を見て、「双龍車の仲間たちの気持ちがどうだったか分かった」と語った。 続いて「今、私もそんな気持ちだ。 実は今の私にできることもあまりない。 それでゆっくり友達に向かって歩いてみることにした」と付け加えた。

24日、双龍車の会社側は最後に復職しなければならない無給休職者47人に’期限なしに休職を延長する’と通告した。 この話を聞いたキム指導委員は、「熱が入りすぎている。 「私はもともと悪口を言わず、本当に上品な人だが、我慢できない。 資本家は犬畜生だ」と一喝した. また、双龍車の労働者に「さらに持ちこたえなければならない時間だ。 私たち身も心も壊れずに。 頑張ろう。ファイト!」とエールを送った。

キム指導委員は徒歩行進による「連帯」がパク指導委員に力になると確信した。 彼は”連帯より大きな力がどこにあるかよ?”と”2011年私も座り込み158日目に希望バスが来る前にはほとんど報道が行われなかった。 闘争する組合員同士がやせ衰えていた。 そして、「金汝鎮(キム여ヨジン)と突然外部勢力が来て希望バスが来たため、政界も関心を持ち、聴聞会、国政監査を経て問題が解決した」と述べた。 さらに、「徒歩行進をすれば、社会とマスコミで嶺南(ヨンナム)大学医療院の高空籠城問題に関心を持つようになり、そうすれば中断されている会社側との交渉も進展があるだろう」と期待を示した。

長い徒歩行進の末、嶺南(ヨンナム)大学医療院で朴指導委員を会ったら何をしたいかと尋ねたところ、金氏は”確かに何をして、建物の下で顔も見て’私行く’してこよう”すると、”あ!靴も一足買ってって言ってるだろう”とにっこり笑った。 彼は「私たちが実際に会えば、それほど親しくはない。 ムン규ギュヒョン神父とムン정ジョンヒョン神父が一緒に座り、 ‘私たちあまり親しくはない’とおっしゃるのと似ている」と述べ、記者の笑いを誘った。

参加者たちは、密陽(ミルヤン)の川辺に沿って密陽市内まで長い堤防の道を二時間以上歩いた。 午後3時40分ごろカンドゥクギルに立ち止まった彼らは再び休息を取った。 靴と靴下を脱いで裸足になり、円形に囲まれてウォーミングアップ運動を始めた。 司会者は「こんな出会いは初めてだ」というスローガンを叫び、「歩きながら感じた感じを体で表現しよう」と提案した。 参加者たちは、手を高く上げて足を蹴って回転するなど、各自のやり方で気持ちを表した。 金指導委員も興じて参加した様子だった。

正午に始まった徒歩行進は4時間30分が過ぎた日が暮れるころ密陽(ミルヤン)駅広場で終わった。 金氏は3日目徒歩を完走した感想を尋ねられると”あ、遠い。 嶺南大医療院が 밀密陽(ミリャン)쯤ぐらいだったらいいのに」と話し、笑いを誘った。 行進参加者たちは記念写真を撮りながら、達成感と連帯の喜びを分かち合った。 最後に「パク문ムンジン同志、がんばれ!」「嶺南大医療院労組、がんばれ!」を広場に響き渡るように大声で叫んだ。

https://www.vop.co.kr/A00001457193.html

AGC旭硝子本社前と横浜工場前で連帯行動

 12月9日、旭非正規職支会支援共闘会議は、AGC旭硝子に対して、朝の京浜工場(横浜市)ビラまき、昼の本社申し入れと抗議行動、夕方の京浜工場宣伝行動と、一日韓国の旭非正規職支会と連帯して行動した。

 AGC旭硝子本社への申し入れ行動は、担当者不在。他の部署の社員が対応に出て来たが、担当が違うので勝手に申入書を受け取るわけにはいかないの一点張り。このような対応を一貫して続けるAGC旭硝子。絶対に許さない。

 申し入れ後に書留郵便で社長宛に送付した。

 申入書は以下の通り。

申入書
2019年12月9日

AGC株式会社
代表取締役兼 社長執行役員 島村 琢哉 様

旭非正規職支会支援共闘会議
議長 山本 弘行

当会は、貴社に対して、下記の通り申し入れます。

1  2019年8月23日韓国大邱(テグ)地方裁判所は、旭非正規職支会組合員について、貴社グループ会社AGCファインテクノ韓国株式会社の違法派遣を認め、会社側に”雇用の意思を表示せよ”と判決しました。この判決に直ちに従うように、本社がAGCファインテクノ韓国株式会社に指導してください。

2  2019年2月15日韓国大邱(テグ)検察庁は、AGCファインテクノ韓国株式会社及び原納猛社長(当時)、請負会社GTSを、「違法派遣」の容疑で起訴しました。現在裁判が進行していますが、原納猛元社長は裁判の出廷を拒否しています。原納猛氏は、AGCファインテクノ韓国株式会社の社長に就任する前は、電子カンパニー技術開発本部本部長を務めていました。貴社本社の人事異動で同社の社長に就任したのであり、貴社には監督責任があります。原納猛氏が裁判に出廷するように、貴社が責任をもって指導してください。

以上

 昼休みを中心に、本社前で抗議行動を行う。遠く群馬県からも会員がかけつけてくれた。旭支会の訪日闘争、支援共闘会議の訪韓闘争を通して、私たちの団結は強く確かなものに育っている。

 最後に怒りのシュプレヒコールを全員でAGC旭硝子本社に叩きつけた。

 その後、旭支援共闘会議の事務局会議を行い、今後の闘いについて討論を行い、当面の方針を確認した。

 それから可能な仲間は横浜市鶴見区にあるAGC京浜工場に向かった。ここで地元・神奈川の仲間と合流して、京浜工場前で宣伝行動を行うのだ。

 この日、朝から神奈川の仲間と事務局の仲間で、事前にビラをまいた。とても受け取りがよく、用意したビラは早々になくなってしまった。午後は具体的に支援につなげるような宣伝行動を行おうという目的である。

 はじめての取り組みで、そう簡単に成果が出るわけではない。それでも、カンパをしてくれる人も現れた。粘り強く継続することを確認して終わった。

 終わってからは、みんなで軽く「反省会」。いつも訪日団を迎えた時に朝食をとる食堂へ。朝とは違って夜は赤ちょうちんが出ていた。労働者の店。おでんと焼き鳥がうまかった。

今年8月、韓国大邱(テグ)地方裁判所は、4年前に解雇された旭非正規職支会組合員について、違法派遣を認め、会社側に”雇用の意思を表示せよ”と判決しました。2月に韓国検察庁が、AGC旭硝子韓国子会社を違法派遣で起訴したのに続くものです。

 最低賃金ギリギリの賃金で、土日も休めない、風邪を引いても休めない、昼食時間は20分、ミスをすると懲罰で赤いチョッキを着せられる。文句を言おうものなら解雇が待っている。こんな会社で、請負労働者が労働組合をつくって要求したことは、わずかばかりの時給の賃上げと作業服と弁当の改善でした。

 労働組合結成から1ヶ月後の2015年6月、AGC旭硝子は、労働組合をつぶすために、請負会社との契約を突然解除して、178人全員をメール1本で解雇させ、会社を解散させました。

 旭非正規職支会は、このような野蛮な仕打ちに対して、AGCの違法派遣の責任を追及し、職場復帰して工場に労働組合の旗を立てるために闘っています。5度目の寒い冬を迎えています。

 韓国の非正規労働者は、非正規労働者のみじめな現実を、労働組合と団結の力でひっくり返そうと立ち上がっています。日本の非正規労働者の未来をも背負って闘っています。

 ともに立ち上がりましょう!

 彼らの闘いを勝利させる力はあなたの中にあります。旭非正規職支会支援共闘会議に加入して彼らの闘いを支えてください。

 日韓の労働者の団結の力で、諸悪の根源=非正規職を撤廃させましょう!

 日本経済新聞「こころの玉手箱」欄に9月末からAGC島村琢哉社長の記事が5回にわたって連載された。この中で島村社長は、小学生の時に、「ひとりはみんなのために。みんなはひとりのために」という言葉を知って、自分が変わった。通っている教会の礼拝中に考えるのは「世界で働く5万4千人のAGC社員の幸せだ」と語っている。

 しかし島村琢哉は、この言葉とは裏腹に、リストラを断行することで社長にまでのしあがった。現在は旭非正規職支会の偽装請負と解雇・不当労働行為の責任を居直っている。もっとも「世界で働く5万4千人のAGC社員」の中には、リストラで解雇された労働者も、旭非正規職支会をはじめとした世界の非正規労働者も入っていないのだろう。「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン」なんて、ふざけるな。

 AGCは、旭非正規職支会が抗議で工場前のアスファルトにペイントでスローガンをスプレーしたことに対して、アスファルトを全部はがして舗装し直す土木工事を行い、費用の約5百万円を支払えと旭支会に請求して裁判をおこした。この裁判で、アスファルトをはがさなくても、ラッカースプレーできれいにペイントは落とせることを暴かれて、AGCは追い詰められている。まさにいやがらせ。AGCはとんでもないブラック企業だ。

 ブラック企業をぶっとばすのは労働者の団結と闘いだ。韓国の非正規職撤廃の先頭に立つ旭非正規職支会。これに日本の労働者の闘いと団結が結びついた時、ブラック企業に勝利することが出来る。

 みなさん、ともに立ち上がろう!旭支援共闘会議に加入・支援をお願いします!

料金所労働者がまたも勝訴!

http://worknworld.kctu.org/news/articleView.html?idxno=250934&fbclid=IwAR02A1T5vjnr5Q3p47dG5nLVyhTzmZufe73WL2VJSUX74gXgY5gkd5mzlCM

料金収納員、相次ぐ「勝訴」金泉支、「料金収納員を直接雇用すべき」

労働と世界

料金収納労働者を”道路公社が直接雇用すべきだ”という判決が繰り返されている。 大邱(テグ)地裁金泉(キムチョン)支は6日、韓国道路公社のトールゲート料金収納員などを直接雇用しなければならないと判決した。 ただ、裁判の過程で書類の準備が不十分だった一部は却下された。

今回の判決は、大法院(日本の最高裁判所に相当)が今年8月、料金所料金収納員の地位は「韓国道路公社職員」との判決を下した後、同じ趣旨で出たものだ。 裁判所が「料金収納員の労働者を道路公社が直接雇用すべきだ」とする法的根拠を再確認したことになる。

大邱(テグ)地裁金泉(キムチョン)支院民事合議部はトールゲート料金収納労働者4,120人が韓国道路公社を相手に起こした労働者の地位確認訴訟で一部の原告勝訴の判決を下した。 同地裁は、道路公社が原告の料金収納労働者に「具体的な業務指示をしたため、労働者派遣契約に該当し、直接雇用義務が発生する」との判決趣旨を説明した

しかし、訴訟に参加した4,120人のうち、子会社に勤務中の3,500人余りは、子会社転換時に直接雇用の権利を放棄するという労働契約書を作成して直接雇用に摩擦が起きかねないという懸念が出ている。 子会社転換を拒否した600人余りは直接雇用される見通しだ。

トールゲート料金収納労働者たちは、この7月、子会社転換勤務拒否を理由に集団解雇された後、5ヵ月間闘争を続けている。 料金所の労働者たちは、道路公社がすべての料金収納労働者を直接雇用するまで闘争を続けるという立場を明らかにしている。

日本から亀尾ろう城テントを訪問

事務局長 清水彰二(群馬合同労働組合)

 2019年11月9日、旭非正規職支会支援共闘会議は、動労千葉訪韓団としてソウルの労働者大会に参加、翌 年11月10日、大型バスを仕立てて40名で亀尾(クミ)市工業団地にあるAGCファインテクノコリア工場前ろう城テントを訪問した。支援共闘会議としては昨年10人で初めてテントを訪問してから2回目。旭支会の日本遠征闘争は5回行っている。本当にともに闘う仲間として、交流を重ね、信頼関係を築いてきた。とても再会がうれしい。

 亀尾に到着すると旭支会が地元で一番おいしいというふぐ料理のお店のランチで一行をもてなしてくれた。 厳しい財政状況で闘っているのをわかっているので心にしみる。

 その後ろう城テントに到着。旭支会の組合員がみんなで出迎えてくれた。うれしそうな様子は、ミン・ドンギ同志が送ってくれたすばらしい写真(他)で見てほしい。

「旭闘争に勝利して非正規職を撤廃するぞ!」—-シュプレヒコールで交流会が始まった。「ここまで闘ってこられたのは多くの労働者の連帯と日本の同志たちの支援があったから」「旭支会だけでなく、すべての労働者の勝利まで闘う」と語るチャホノ支会長に応え、支援共闘会議の山本弘行議長が「旭支会の闘いに学び、日本でも『非正規職だけの社会をつくらせるな』と奮闘している」「あらゆる手段でAGC資本を包囲していく」と決意を述べた。動労千葉の佐藤正和執行委員も連帯のあいさつを行った。
 2015年の民衆総決起闘争でハンサンギュン前委員長とともに逮捕されていた民主労総のペテソンさんもマイクを持ち、「こうした非正規職労働者たちこそが、最も力強く資本と闘う希望だ」と強調した。

 短い時間の交流で名残を惜しみながら、チャホノ支会長ほか何人かの旭支会の同志たちの案内で、一行は亀尾市の隣、金泉(キムチョン)市にある道路公団本社に向かう。ここでトールゲート(料金所)労働者が正社員化を求めてろう城を続けているのだ。この日で63日目。ろう城を続ける120人の多くは女性たち。

  トルゲートは全国に380カ所あり、労働者6500人が偽装請負で働かされてきた。ムンジェイン政権は正規職化を約束したが、道路公団の子会社への転籍を要求。このような「偽の正規職化」を拒否した1500人が不当に解雇され、現在まで直接雇用と原職復帰を求めて闘っている。

 道路公団本社に着いたと告げられてバスを降りる。まるで大学のような広い構内に建物がいくつかある。スローガンを書いた労組の赤い横断幕が貼れるところすべてを埋め尽くすかのように貼り巡らされている。

 しかし人の気配がない。日曜日だからであろう。こんなところでろう城をしているのだろうかといぶかしく思う。時間がないとチャホノ支会長にせかされてずんずんと歩く。すると機動隊バスが何台か止まっている。しかし機動隊が乗っているのかどうかもわからない感じだ。角を曲がって大きな建物の裏手に回ると、わーっという歓声。機動隊が阻止線を張るラインの向こうにたくさんの労働者が手を振って私たちを出迎えてくれていた。感激して手を振り返す。

 旭支会のチャホノ支会長の司会で交流集会が始まる。旭支会はこのトールゲート本社のろう城闘争を自分たちの闘争のようにともに闘っている。

 訪問団を代表してまず私が連帯のあいさつをした。

…日本でも非正規労働者は苦しんでいる。世界中で同じだ。私はみなさんが、長くろう城し、秋夕(チュソク、お盆、日本の正月のようなもの)にも帰らず、拘束・排除をも覚悟してスクラムを組んで闘っている動画を見て日本で涙していた。みなさんの非正規職撤廃をかけた闘いは世界の労働者階級の宝物だ。必ず勝利するまでともに闘います。…

 次にコンビニ関連ユニオンの河野委員長があいさつ。コンビニ労働者のほとんどが非正規、労働者が社会の主人公だという労働組合を作りたい、労働者はひとつ、ともに闘いましょう。

 日本からの発言を受けて、占拠闘争中の民主労総・民主一般連盟のキムボンジン副委員長から、みなさんの黄色いゼッケンが見えた時、本当に幸せだった、必ず勝利するとのあいさつ。

 トールゲート組合員たちが一生懸命練習した律動を披露してくれる。闘争歌にのせて。労働者はこうやって団結する。すばらしい。この時ばかりは、阻止線を張っていた機動隊の盾が、まるでステージの幕のように開き、終わるとまた同じように閉じる。これには笑ってしまったが、労働者の闘いが機動隊をも獲得してしまっているように思えて仕方ない。

 最後に、一人一人が、一人一人と、握手して、あいさつをする。たくさんの涙が流れた。必ずともに勝利したい。何より日本で同じように非正規職撤廃の闘いをつくり出す決意だ。

トールゲート(料金所)闘争 | 韓国労総脱退した労働者が決して折れない労働者の大意を語る – インタビュー

11・9韓国労働者大会が近づいた。旭非正規職支会支援共闘会議は、動労千葉訪韓団として参加する。この時に旭非正規職支会ろう城テント(クミ市にあるAGCファインテクノコリア工場前)を訪問し、隣にあるキムチョン市の道路公団本部のトールゲートろう城場も訪問する。トールゲート労働者の闘いの記事を転載する。旭非正規職支会第5次遠征闘争に取材で同行してくれたイ・ヨンドク同志の「行こう!労働解放闘争連帯準備会」HPの記事だ。

料金所闘争 | 韓国労総脱退した労働者が決して折れない労働者の大意を語る – インタビュー

イヨンドク

韓国労総を脱退した労働者は依然として道路公社の本社にいる。 座り込み場の外で座り込みをしている人々を守りながら、共に戦っている。 彼らは労働者を分けて打つために出たゴミない(“2審で係争中の収納員は直接雇用し、1審で係争中の労働者は1審判決結果による。 1審判決前までは臨時職で働いている”)を拒否した。 これらの中には2審係留者もいる。 彼らは数十人に過ぎないが、彼らの大義は無限に大きい。 道路公社は28日まで臨時職勤労の意思を明らかにしてほしいと労働者を脅迫している。 しかし、この労働者たちは最後までトールゲート労組の組合員たちに訴えている。 共に戦って共に勝利しよう! 彼らの声を聞くためにインタビューをした。 インタビューに応じた同志たちは、東金海(トンキムヘ)、梧倉(オチャン)、南清州(ナムチョンジュ)、大蘇(テソ)、利川(イチョン)営業所などで働いた労働者たちだ。

韓国労総を離れ、民主労総の手を握ったある同志が発言する姿(写真_チャ헌ホンホフェイスブック)

同志は1審勝訴者(2審係留者)であり、韓国労総の料金所労組が署名したごみの案どおりにしても直接雇用対象者だ。 じっとしていてもいいのに、韓国労総を脱退し、本社の座込み場で共に闘争している。

トールゲート労組があった時も民主労総に行きたいという気持ちが大きかった。 トールゲート労組は、「疎通が全くできない。 執行部は自分の計画を全く共有していない. 闘争は時間だけつぶして来る場合が多かった。 ソウル料金所の隣にある亭子洞(ジョンジャドン)の街頭行進と律動を習う程度がすべてだった。 それでも自分のお金をかけて毎日出退勤した。 決定的に心が変わったのは、キャノピーで民主労総同志らとともに高空籠城をした(韓国労総料金所労組)朴善福(パク선ソンボク)委員長が一方的に降りた時だった。

その次の9月9日、民主労総の組合員たちが、金泉(クムチョン)本社の座り込みに突入したとき,私たちはソウル料金所に向かう途中、車を回して金泉に来た。 来てみたら救社隊と警察が阻止していたし、入るために激しく戦った。 後で見たら、私は入らなかったが、料金所労組の組合員10人余りが本社内に入った。 しかし、次の日の朝、全部出たよ。 指導部が 빼引き出す金がない 하면서と言って出てこい」と言ったという。 連行されれば罰金を払うお金がないという意味だった。 あまりにも情けなかった。

パク선ソンボクがゴミ仲裁案を受け入れた後脱退した組合員たちがいるが、私たちはその前に脱退し、所属労組なしに民主労総所属の労働者たちと一緒に本社の外を守った。 最初から1,500人一緒に行こうと闘争したが、私だけ直接雇用されたと行くことはできないのだ。 その心が一番大きい。 私はあまりすごいことをしたとは思わないが、聞いたら話す。 民主労総に一緒に来るといった同僚たちは1審も受けられなかった人たちだ。 一緒に行こうと言ったのに裏切っては行けない。

今回の料金所労組の合意をどう評価するか?

韓国労総の料金所労組委員長パクソンボクは、組合員の意見を取りまとめて9月30日、支部長会議を開くことにした。 しかし、これさえも開けなかった。 10月1日、乙支路委員会はこれまでパクソンボクが協議案に出した案を仲裁案として提示した。 民主労総は反対したが、トールゲート労組は受け入れるという意思を明らかにした。 仲裁案はすでに決まっていたものだという思いから、裏切られた気持ちを隠せなかった。

どう1審ギェリュジャ900人余り、いや全体1,500人余りの生存権がかかった問題をいかなる公式的な会議もなく執行部が独断的に決定するのか? その後10月8日、料金所労組は問題提起する十数人の組合員をバンドにおいて、強制脱退させた。

「(その案は)会社側のための案だ。 朴ソンボク氏は、国政監査を明日に控え、組合員の考えも聞かずに一方的に署名した。 労働者のための案ではない。 最高裁の判決の趣旨自体が1,500人全体の直接雇用だ。 1,500人みな道路工事のため、道路公社が指示した仕事をした。 全体が直接雇用されなければならない。 道路公社の息の根をほぐした朴ソンボク氏の行動は、一時でも料金所の労組組合員であり、ともに直接雇用を叫んできた労働者として、絶対に許せない過ちだと考える。

いつも朴善福は、道路公社が危険にさらされた時、リリーフ投手の役割を果たした。 9月9日、李康來(イ・ガンレ)が、世宗市で最高裁判決無視する案を一方的に発表した際、僕は世宗市に向かおうとした。 ところが、朴善福氏はあえて支部長会議を開いて闘争戦術を変えなければならない。「道路を占拠しなければならない」と言った。 それで今日また占拠しようと思った。 名分もあるから。 すると、執行部会議で議論すると言った。 結局、うやむやになった。 時間稼ぎだった。 午後、民主労総の組合員たちが本社を占拠した。 その知らせを聞いて急いでバンドに書き込んだ。 支部長会議がそんなに重要なのか、民主労総の組合員たちが命がけで戦っているのではないか、今私たちがいるべきところがどこなのか。 組合員たちは次々に金泉に下り始めた. 執行部は来たくて来たのではない。

もし乙支路委員会の仲裁に期待したのか。

民主党の乙支路(ウルチロ)委員会が仲裁に乗り出すと言った時、民主党政府が「ろうそく闘争」のために登場した政府であるため、少しは期待した。 しかし、仲裁案の内容を聞いて、乙支路委員会はやはり以前と変わっていないことが分かった。 乙支路委員会は、政府と道路公社の報道官のようだと感じた。

トールゲート労組執行部は賛否投票さえしなかった。 ?これまでトールゲート労組の運営を見て感じたことは?

以前から朴ソンボクの問題を提起した組合員が多かった。 「なぜ規約通りに進めないのか」、「なぜ執行部自らが公知した内容も破りながら独断的にしようとするのか」など。 問題を提起した同志たちをバンドから大挙強制脱退させ、他の組合員の目と耳を塞いだ。 これでは足りず、除名までしようとした。

6月から執行部は、組合員たちに私を信じてついて来いという言葉だけを繰り返し、疎通がまったく行われなかった。 1人当たり闘争基金10万ウォンずつ集めて作った9千万ウォンが超える闘争基金があったが、使途もあらかじめ決めず、委員長の任意的判断で先に使用して執行部内でも声が高かった。 闘争基金の使途に関して領収書が添付された精算資料を一度も公知したことがない。 労組はまったく体系が設けられておらず、「委員長の私組織」という気がするほど、なんとも表現のしようがない組織だ。

昨年末、多くの労働者が外注会社の社長と新しく契約書を書かなければならなかった。 子会社設立のための契約満了期限に合わせるためだった。 不利益を憂慮した労働者たちがトールゲート労組に質問をしたが、この時も労組執行部は質問した労働者たちを罵倒した。 今回は合意しようとする案に対して、多くの労働者が一つひとつ質問すると、執行部は現場が動揺することを恐れて、合意書の判を押す前日に問題提起する労働者をバンドからすべて降退させた。

ごみの合意案がこすった場合1審ギェリュジャ半分近くが転じた。 この時、民主労総所属の労組が、このトールゲート労組組合員の加入を受け付けなかった。 すでにトールゲート労組は、「委員長がキャノピーから降りる時、民主労総との連帯は崩れた」と公然と言った。 ところが形式的にここに来ているから、本社に渡っているから、道義上、韓国労総労働者たちの加入を受け付けていないようだが、それがあまりにも残念だ。 その時もらっていたらたくさん来ただろう。 加入を待つ間、トールゲート労組執行部がテントごとに面談し、執拗に説得した。 多くの労働者がファクトも知らずに執行部の言葉だけを信じて家に帰った。 民主労総が正しいことは知っているが、闘争の困難を考えて家に帰った労働者たちもいる。

闘争基金10万ウォンも出したが、目覚めたら朝にすることがコンビニに行って氷のミネラルウォーターを購入することだった。 「洪恩洞(ホン은ウンドン)、李康来(イ 이강ガンレ)の家の前によく出かけたが、その夏がどれほど暑いか。 運動靴の上に火をつけるようだった. ところが、執行部がミネラルウォーターを1本も与えなかった。 地方から来ている組合員たちは午後5日、食べ物を持って来ている。 それなのに君はなぜこれだけを持ってきたのか、これだけをするのか」と仲たがいさせた。

ここに来ても私たちが2,400ウォン出してご飯を食べた。 量が少なすぎた。 しかし、民主連合労組でご飯を与えて食べたが、それを食べないように自分たちがただでやってくれる」と話した。 それもあまりにも量が少なかった。 救護も民主労総の救護に従わないように言った。 それが何が大事か? 連帯してくる労働者に合わせれば良いのではないか? そうしながら、自分の抜け穴は全部作っておいたという。 例えば、総書記が罰金迎えと5千万ウォンを切り離したという。 위원장朴善福(パク선ソンボク)委員長は私組織の水準ではないか。 朴善福(パク선ソンボク)氏は、「これ以上いたら弾劾されるのではないかと急いで合意したと思う。

民主労総に加入して活動している。 Q:直接経験させられた違いは?

民主連合労組は、一日文化祭が終わって皆集まって、良かったこと、悪かったこと、残念だったことを話し、討論もする。 ところが、トールゲート労組ではどう動いているのか全く分からない。 本社を降りている時、トールゲート労組執行部は、「少し雨が降れば、宣伝戦はやめて休むように」と言った。 このように緩めながら、民主労総は「厳しすぎる」と強調したため、不満を持っている人々の中でも民主労総に渡れなかった人々がたくさんいる。 民主労総に対する先入観を植え付けた。

知り合いの弟が籠城の中にいる。 その友達が6月15日から解雇されて闘争しましたがずっと民主労総と韓国労総の違いを話してくれた。 ミネラルウォーター1本もすべて個人のお金で買って飲んだ。 暑い夏の日、毎日家で水を凍らせていた。 ソウル料金所まで往復80km、毎日往復したが、ガソリン価格も全部自分のお金で解決した。 食事代も同じだ。 私たちは民主労総の組合員たちがすごいと言ったのに、民主労総の組合員たちは料金所の組合員もすごい、毎日自分のお金をかけて食事をし、どうしてああでもそうだったという。

民主労総に合流してあまり経っていないが、連帯の力がすごいと感じた。